【横浜の名建築】長浜野口記念公園 旧細菌検査室
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第29回は、金沢区長浜の旧細菌検査室。千円札でもおなじみの偉人、野口英世がペストから日本を守り、世界で活躍するきっかけを作った建物だった。
ライター:吉澤 由美子
破天荒な偉人 野口英世
野口英世は、1876(明治9)年、福島県に生まれた。
1歳の時、囲炉裏で火傷を負って左手の指が開かなくなってしまうが、貧しい家に育ちながらも、母親の方針により勉学で頭角を現し、その才能を見込んだ周囲の援助を受け、手術によって指が開くようになったのが15歳の時。このことから、野口英世は医学の道を志し、わずか20歳で医術開業試験に合格。
解体新書のような貴重な文献も、長浜ホールに展示されている
ペスト菌を発見して世界的な名声を得ていた北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)が所長を務める伝染病研究所に、野口英世は研究助手として入所。
展示物の中には種痘の道具もあった
22歳の時、長浜の横浜海港検疫所の医官補として勤務をはじめる。
実はかなり破天荒だった野口英世。この頃、長浜から象の鼻桟橋まで船で通い、遊郭に何度も行っていたらしい。行き来に使ったのは、外国船へ検査に赴くための船。かなり大胆だ。
他にも援助された学費などを遊興費に使い果たすというエピソードがいくつか伝わっている。それでもなお援助が続いたことに、野口英世の類まれな才能の大きさを感じさせる。
そして長浜にきて1ヶ月で、野口英世は横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸(あめりかまる)」乗員から、検疫所初となるペスト患者を発見し、隔離するという成果をあげる。これはまさしく快挙であった。
時代を感じさせるコンセント。当時から孵卵器や滅菌器は電気を使っていた
その功績により赴任からわずか5ヶ月で北里柴三郎の推薦を受け、ペストが流行していた中国へ国際予防委員会の一員として派遣される。野口英世が世界を舞台に活躍しはじめるのだ。
野口英世が残した偉大な足跡をたどる世界地図
帰国後すぐアメリカに渡った野口英世は、毒蛇の研究で成果を上げ、梅毒の進行が脳や神経の組織を壊すことを発見。その後、黄熱病の研究を進める途中で自らも黄熱病に感染し、1928(昭和3)年、アフリカのガーナで亡くなる。51歳だった。
研究者として所属していたロックフェラー研究所には、ロックフェラーの胸像とともに、野口英世の胸像が飾られている。
取材を終えて
横浜の検疫所で、ペストの蔓延から横浜、そして日本を守った野口英世。
野口英世が手を洗ったシンク
旧細菌検査室は、野口英世が栄光のきっかけをつかんだ場所。
野口英世ゆかりの研究施設で日本に現存しているものはここだけだ。
旧正面入口から見た検査室
偉人に破天荒な一面があることを知ると、世人君子の顔に人間味が加わる。当時の建物で、その頃の医療器具に囲まれていると、伝記を読んだ子ども時代には感じなかった親しみがわいてきた。
※細菌検査室などは、特別な許可をいただいて内部で撮影しています
― 終わり―
横浜市長浜ホール 公式ページ
http://www.nagahama-hall.com/
野口英世記念公園
長浜ホール
〒236-0011横浜市金沢区長浜114-4長浜野口記念公園内
TEL:045-782-7371
京浜急行「能見台」駅下車、徒歩15分
金沢シーサイドライン「幸浦」駅下車徒歩15分
開館時間: 9:00〜22:00
1階の野口英世の資料を集めた展示コーナーは無料開放
貸しホールの申し込み、利用料金等は長浜ホール公式サイトをご覧ください
同じ敷地内の旧細菌検査室は無料開放されています