保土ケ谷区の和田町の由来は和田義盛って本当?
ココがキニナル!
保土ケ谷区和田町の由来は、鎌倉幕府侍所別当(初代警察・法務長官)和田義盛からと聞きました。これってほんと?(yamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
本当だったが、和田義盛の名前が直接付いたわけではなかった! 義盛ゆかりの神社が建てられ、それが町名の由来になったようだ
ライター:田中 大輔
横浜から相鉄線で20分ほどの場所にある相鉄線和田町。
以前、「保土ケ谷区にある仏向町の名前の由来は?」でも訪れた街だ。今回は、和田という町名そのものの名前の由来を探るため再上陸。
キニナルにある、和田義盛との関係は見つけられるだろうか。
和田義盛とはどんな人物だったのか
和田義盛は平安時代末期から鎌倉時代の武将。
1180(治承4)年に源頼朝が平氏打倒を掲げ挙兵した際に彼に従い、鎌倉幕府の御家人となった人物だ。
鎌倉幕府の御家人だった和田義盛
鎌倉幕府成立後はキニナルにある通り、現在の警察や軍隊にあたる侍所の最高役職である別当に初代として就任した。
頼朝の死後も幕府で活躍を見せるが、二代執権・北条義時とのいさかいから兵を挙げ、和田合戦と伝えられる鎌倉での市街戦を繰り広げ、戦いの中で命を落とした。
和田の名前がついたお稲荷さん
では、鎌倉幕府“侍所別当”は和田の町名に影響を与えたのだろうか。
さっそく和田で和田義盛と関係のありそうな場所を探してみることに。「これは!?」と思い向かったのは、駅から歩いて10分ほどの「和田稲荷」。
坂の途中にある和田稲荷神社。鳥居とのぼりの存在感がスゴイ
小さな神社でお社もこぢんまりとしているが、周囲の木々や苔むした階段が神社らしさを演出している。
和田稲荷のお社は比較的新しく見えるが、いつごろからあるのだろうか
お社の上部分に縁起が書かれているが、ハッキリと読み取れない。
そこで、この神社に隣接している真福寺というお寺で話を聞いてみることにした。
和田稲荷は義盛と関係があるのか!?
真福寺で作業していた男性に聞いてみると「あれはここのお寺で管理してるよ」との答え。
詳しい話を聞くため、住職に取り次いでもらった。
真福寺は高野山真言宗のお寺
住職に事情を説明すると、「和田稲荷の由来は和田義盛からですよ」とアッサリ。
真福寺は享保年間(1716~1735年)の開山とのことだが、和田稲荷は「このお寺より古くからあるんです」と住職。
住職の安井覚明(かくみょう)さん。突然の訪問にも優しく応対してくれた
お稲荷さんが建てられた時期について聞くと、住職は引き出しから一枚の紙を取り出し手渡してくれた。
住職からいただいた資料。和田稲荷の縁起が説明されている
和田稲荷の成り立ちについて書かれたこの資料には、和田義盛も登場している。
噛み砕いて説明すると、治承年中(1170~1180年)に頼朝公が平家打倒のため白根不動明王におこもりしようとしていた、というところから話は始まる。
和田義盛もお伴についていて、道中、この地で宿を取ったんだそうだ。
その夜、義盛の夢枕に観音様が現れ「お稲荷様を信じれば願いがかないますよ」と告げた。
翌朝、このことを頼朝に話したところ、大将は喜んで土地を与え、文治元(1185)年に神社が完成したと伝えている。これが和田稲荷の始まりだ。
和田稲荷と名が付き、和田へ
さて、この縁起には続きがある。
実は、和田稲荷が造られたときには“和田”という冠は付けられていなかった。
1193(建久4)年に頼朝公が狩りをするため再びこの場所を訪れたときに、このお稲荷さんにお参りし「和田稲荷」と名付けたんだそうだ。
現在は鳥居にも「和田稲荷」としっかり書かれている
その後、この和田稲荷が元になって、この辺りが和田町と呼ばれるようになったというのが町名の由来。
住職によると、「和田というのは、日当たりのいい田んぼのことで、地名や人名によく使われている。ただ、和田町の場合は和田義盛から来てるんです」。
取材を終えて
和田町の町名の謂われは、正確には“和田義盛が由来となった神社が由来”だった。
吉田町や高島町のように人の名前が地名に付くケースはあるが、人名がワンクッション置いて地名になるというのも面白い。
義盛にとってはたまたま一晩泊まっただけの場所。よもや自分の名前が何百年も使われるとは思いもしなかっただろう。和田町の由来を知って一番驚いているのは、当の和田義盛かもしれない。
―終わり―
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浜のすーさん
2012年05月21日 15時49分
何気なく、相鉄線の和田町等と使っていたけれど、そういう由来があったんですね。勉強になりました。