検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

世界を魅了した!? 本牧にあった享楽の場「チャブ屋」と伝説の娼婦「お六さん」の生涯をレポート!

ココがキニナル!

本牧特集にあった本牧チャブ屋の伝説の娼婦「お六さん」が気になります!チャブ屋の実態など横浜の闇の部分を調査願います。(sakuraさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

チャブ屋は本牧にあった売春宿だがダンスホール・バー・喫茶店などの側面も持っていた。お六さんは諸事情あり家族と別れ売れっ子のチャブ女になった

  • LINE
  • はてな

ライター:松宮 史佳

「チャブ屋」という言葉をご存じだろうか? 以前、はまれぽの「本牧って昔はどんな感じだった?(前編)」でも取り上げた「チャブ屋」。諸説あるが、『タウン誌浜っ子(1988.February)』によると“チャブ屋”とは英語のCHOP HOUSE(簡易飲食店)がなまり、“チャブ”になったという説が有力なようだ。ちなみに“チャブ”とは食事するという意味で「横浜独自の言葉」らしい。
 


伝説の『タウン誌浜っ子(1988.February)』より
 

ところで「チャブ屋」はどのような場所だったのか? ひと言で言うと、「おもに外国の船乗りなどを相手にした売春宿」。しかし、「売春宿」として営業するだけではなく、ダンスホールやバー、スナック、喫茶店などを合わせた側面もあったようだ。

今回は本牧におけるチャブ屋の歴史を特集。また、伝説の娼婦といわれた「お六さん」についてレポートする。まずは以前もお世話になった中区歴史保存会・会長の大谷卓雄さんと本牧在住の郷土史家・長沢博幸さんにお話を伺う。
 


「チャブ屋」の起源とは



まずは「チャブ屋」の歴史を紐解くことに。名前の由来と同様に「チャブ屋」の起源も諸説ある。

1つめは“外国人遊歩道に設置された休憩所が「チャブ屋」になった”という説。
 


丁寧にゆっくりと説明してくれる長沢さん
 

1857(安政4)年、幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と通商条約を結んだ。この条約の中には、居留地の外国人の行動範囲を規制した“開放場の遊歩規定”を定めていた。これは外国人の行動範囲を規制したものだが、必ずしも守られていたわけではなかったのだ(『横浜チャブ屋物語』<重富昭夫>)。攘夷(じょうい、外国人を国内から追い出そうとする動き)の嵐が吹きまくっていた最中、1862(文久2)年に「生麦事件」が起きてしまう。
 


『横浜チャブ屋物語』(重富昭夫)
  

そこで幕府は居留地にいる外国人の安全をはかるべく、1865(慶応元)年に外国人遊歩道を完成させた。外国人遊歩道は普通地蔵坂下が起点になっており、地蔵坂上から桜道を下って千代崎町で二手に分かれる。本牧、間門、不動坂、根岸競馬場、山元町を通って地蔵坂上に戻る周遊コースの本線。もう一方は北方を通り、十二天が終点になっている支線で成り立っている(長沢さん)。
 


赤線はかつて外国人遊歩道だったところ「本牧・北方・根岸(長沢博幸)」
  

外国人遊歩道の距離は「約8.5キロ」。なんと! 長沢さんは距離を正確に測るべく「早朝6時に起床」。自ら車を運転し、距離を計測してくださった! 本牧荒井から本牧宮原は道がなくなってしまうが、「距離が変わらないようにコース取りをした」とのこと。
本当にありがたい・・・。

幕府は外国人の行動を監視すべく、遊歩道沿いの民家13軒に外国人相手の休憩所を開店させた。“単なる休憩所”が次第に酒類や料理を提供し、「外国人を接待する場」に。やがて外国人船員を相手にする私娼窟(認可されていない娼婦がいる場)になっていったようだ。

2つめの説は“海の家や宿屋が「チャブ屋」に移行した”というもの。その昔、本牧海岸は“十二天の海”ともいわれており、海水浴を楽しむ外国人が集まっていた。そして次第に海の家や宿屋が開業。その後、「風俗営業に移行した」と唱える人もいるとのこと。1963(昭和38)年、横浜市が施行した「本牧埠頭関連産業用地造成事業」により埋め立てが開始され、本牧の海水浴場は消失した。
 


明治末期の本牧十二天海岸(横浜絵ハガキ:『横浜チャブ屋物語』より)
 



「チャブ屋」全盛時代へ



幕府により外国人遊歩道に設置された休憩所は当初、わずか13軒だった。だが、1877(明治10)年には北方・本牧方面に30軒が出現。しかし、設備が整っていなかったため、「客の大半は下級船員だった」。だが、1882(明治15)年には本牧天徳寺下の「春木屋」や上台の「梅木」など、一流どころのチャブ屋が次々とオープンし、流行期に入る。建物は次第に洋風に改装された。すると、外国人は「馬車でチャブ屋に乗りつける」ようになったらしい。明治末期、これらの店は屋号を「××ハウス」に改称。大正に入ると、「〇〇ホテル」と変更した。
  


「街の歴史を残したい」と資料収集に情熱を注いでいる大谷さん
 

色鮮やかな「チャブ屋」のラベル(大谷さん所蔵)
 

「チャブ屋」の全盛期は明治末期から大正初期ごろ。全盛期を迎えたのは日清・日露(1894<明治27>年~1904<明治37>年)戦争を中心にし、対外貿易が盛んになったから。外国人の往来が頻繁になり、チャブ屋はますます繁盛するように。日清戦争前には本牧に30軒、北方に10軒、桜道地蔵坂辺りに5、6軒のチャブ屋が出現。約10年後には市内各所に広まった。