【横浜の名建築】ブラフ18番館
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第24回は、『ブラフ18番館』横浜山手のイラリア山庭園にあるこの洋館は、解体によって建てられたいきさつが判明した興味深い建物だった。
ライター:吉澤 由美子
昔、山手が外国人居留地だった頃、この高台は「Bluff(ブラフ)=切り立った岬」と呼ばれていた。その頃の山手の呼び名を館名としているのが、イタリア山庭園にあるブラフ18番館。
オレンジ色のフランス瓦、グリーンの窓枠と鎧戸、白い壁のバランスが美しい
ブラフ18番館は、イタリア山庭園から少し降りた場所にある。高い位置から眺めることができる洋館は、山手でもここだけだ。
重厚で威厳のある洋館が多い中、絵本の中に出てきそうなこの建物は親しみ深く、どこか懐かしい。
案内してくださったのは、ブラフ18番館の天野典子館長。
「住んでみたいとおっしゃる方が多いんですよ」と天野館長
解体してわかった ブラフ18番館の歴史
ブラフ18番館は、1923年の関東大震災後に、山手町45番地に建てられた。
残念ながら建物の設計者や施工者、いつ竣工されたのかということは伝わっていない。
1991年に解体調査が行われ、その結果、震災により山手の洋館が壊滅状態だった中、この建物は倒壊や火災を逃れた部材を転用して再建されたものだと判明した。
震災前の1921(大正10)年3月10日から、震災翌年の1924(大正13)年12月まで、この館は貿易商のバウデンが所有していた。つまり、震災以前、山手町45番地に館を持っていたバウデンが、震災後同じ場所に再び館を建てさせたということらしい。
地面に黄色く散り敷いたイチョウの葉。左の木はサクラ。春は一面をピンクに染める
バウデンが館を手放した1925年以降は何人かの所有者の手に渡り、第二次世界大戦後の1947年には山手本通りの天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、教会の司祭館として使われてきた。
2階廊下の突き当たり。扉は玄関ポーチの上のバルコニーに通じている
その後、老朽化が進み、先ほどの解体調査を横浜市が実施。その結果、震災により山手の洋館が壊滅状態だった中、この建物は倒壊や火災を免れた部材を転用して再建されたものだと判明した。
解体した部材は横浜市に寄付され、現在の場所に移築される運びとなった。移築されたこの場所の住所は、山手16番地。「ブラフ18番館』という名前になったのは、この場所の旧地名が「山手居留地18番」だったことに由来している。
四季折々に花が楽しめる。これはダリアの一種
司祭館時代にかなり内部は改造されていたが、移築の際に可能な限り創建時の状態を再現。震災前後の機能的な外国人住宅の特徴が伝わる歴史的にも価値ある建物となっている。
この館を作らせたバウデンは、オーストラリアのシドニー生まれ。横浜貿易業界の重鎮であり、外国人社交界の中心人物だった。
震災後に再建されたこの建物で、パーティが何度も開かれたことだろう。取材にうかがった時には、クリスマスデコレーションがブラフ18番館を彩っていて、創建当時の華やかな姿を思わせた。
額縁をアート作品として絵を入れずに飾る欧米的なデコレーション