本牧って昔はどんな感じだった?(前編)
ココがキニナル!
本牧が米軍に接収されていた時代と、今は悲しいマイカル本牧の輝いていた時代をプレイバックしてください。(中区太郎さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
米軍に接収されていた時代、本牧は彼らからさまざまな影響を受けた。前編として、経済復興やグループサウンズの歴史をお届けする。
ライター:松崎 辰彦
長期間接収されていた街 本牧
本牧は現在、“陸の孤島”というあまりうれしくないニックネームをつけられている。最寄り駅であるJR根岸線山手駅または根岸駅まで徒歩20分から30分。そのためバス利用が一般化しており、街には多くのバス停が点在する。
陸の孤島とも呼ばれている本牧周辺(Googleマップより)
本牧にはバス停が多い
こうした不便さに不満を持つ人も多いが、一方で“人がこないから静かな環境が維持できる”という意見もあり、地元民でも見解の相違があることは事実である。
この鉄道空白地帯の多くの部分を、1945(昭和20)年から1982(昭和57)年にかけて在日米軍が接収し、支配していた。
この間、この地は日本でありながら日本でなく、「フェンスの向こうのアメリカ」として、貧しかった日本人の羨望(せんぼう)や憧憬(どうけい)の対象にもなった。
在日米軍住宅の存在でアメリカ文化を肌で感じ、ジャズなどの文化が広まったといわれる本牧は、まさに外来文化を最先端で受け止める宿命を担った横浜らしい街といえよう。そんな本牧の移り変わりを、前編・後編に分けて眺めてみたい。
接収の始まり
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で本牧は炎と煙に包まれた。
横浜大空襲での根岸・本牧
(横浜市史資料室所蔵空襲と戦災資料 アメリカ国立公文書館所蔵)
近辺の根岸競馬場や山手一帯の住宅地などは焼け残ったが、本牧の大部分は壊滅的な被害を受けた。
根岸競馬場(横浜市史資料室所蔵)
同年8月15日の終戦を経て、本牧は米海軍横須賀基地横浜分遣隊の管理下に置かれた。約70万平方メートル(東京ドーム約15個分)が軍人や軍属、その家族の居住地として接収され、翌1946(昭和21)年10月1日、米軍家族第一陣が入居した。
このときから1982(昭和57)年3月31日の本牧米軍接収地返還式まで、本牧は長い接収時代に入るのである。
アメリカの生活が持ち込まれた
「覚えているのは小学生のとき、集団でアメリカ人の子どもたちとフェンスをはさんで岩合戦をしたことですね。ケンカというよりエール交換みたいなものでした」
“岩合戦”とは何か訊ねたところ「泥岩と呼ばれる海底に堆積した泥が隆起したもので、石よりは柔らかいのでそれを投げあいました」と、『かつて中区大和町に巨大な射撃訓練場が存在していた!?』でお世話になった本牧在住の郷土史家である長沢博幸さんは説明した。
長沢さんは1948(昭和23)年千葉県生まれだが、翌年に本牧に移り、今日まで本牧の移り変わりを見てきた。
郷土史家の長沢博幸さん(左)。隣は中区歴史保存会の大谷卓雄さん
(写真提供:長沢博幸)
「ただ、アメリカ人の子どもの中に日本語ができる奴がいて『オマエたちは戦争に負けたんだ』と私たちにいうんです。それで家に帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」
返還前 フェンス越しに見たアメリカ 1981(昭和56)年4月
(写真提供:長沢博幸)
そういう長沢さんは、少年時代にアメリカ人主導の街ならではのさまざまな体験を重ねている。
「米軍施設内で日米対抗ソフトボール大会をよくやりましたが、それは遊ぶにしてもグループの中にアメリカ人が混じっていれば追い出されないのですが、日本人だけだと追い出されるからです。ただ施設内でも完全に日本人は入ってはいけないということではなく、一部の道路は歩行が許されていました」
返還前の接収地 1981(昭和56)年4月
(写真提供:長沢博幸)
米軍の住宅地はYokohama Beach DH-Area(横浜海浜住宅)と呼ばれ、1号地には386戸、2号地には786戸の木造2階建ての住宅が建てられた(戸数は長沢さん調べ)。「コロニア風」と呼ばれるアメリカ式の建物で、フェンスの向こうのバラック小屋に住んでいた日本人にすればまさに別世界であった。
1970(昭和45)年の本牧米軍住宅(写真提供:横浜市史資料室)
1981(昭和56)年4月の本牧米軍住宅(写真提供:長沢博幸)
「彼らは自分たちの住宅地に、アメリカの生活すべてを持ち込んだんです」と長沢さん。
事実、彼らの地域では学校・銀行・映画館・PX(物品販売所)・ボーリング場・野球場・テニスコート・教会など、アメリカ人の生活を完結できるだけの環境を整えたのである。
本牧PX(写真提供:長沢博幸)