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横浜自由通路前に設置された「赤い靴の女の子」にある歌詞の内容が「嘘」って本当?

ココがキニナル!

横浜駅にある、赤い靴の女の子の歌の歌詞は嘘?実は、異人さんに連れていかれていない!?東京の麻布、六本木の周辺にて「この地に眠ります」と書かれている?事実はどんな話なの?(るぱんさん、しげさん)

はまれぽ調査結果!

有力な説は「赤い靴の女の子は『異人さん』の養女になったが結核で渡航できず日本に残留、麻布の孤児院で亡くなったため像が麻布にある」というもの

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ライター:福原 麻実

赤い靴といえば、横浜。「あかいくつ」ってバスも走っているし、赤い靴モチーフのお土産も売っている。横浜駅の待ち合わせ場所にも像があるし、山下公園には海を見つめる像がある。
 


横浜駅自由通路にいる赤い靴の女の子像
 

像の下にある歌詞プレート
  

女の子の視線の先には海が

 
・・・あれ? 山下公園の像は「異人さんに連れられて海の向こうに行ったのに、海を見つめている」・・・? 「これからあの海の向こうへ行くのだな」と見つめているのか、それとも、何らかの事情で行かなかった海の向こうに思いを馳せているのか?

投稿には「横浜の話ではないらしい」とあるがこれは何か関係があるのだろうか。

さらに「静岡の日本平(にほんだいら)にも像がある」「東京の麻布に“この地に眠ります”と書かれた像がある」という情報。

「赤い靴の女の子」はいつどこで生まれ、どこでどのように生きたのだろう。海の向こうへ渡ったのか? いつどこでその生涯を終えたのか。

早速調査へ!



赤い靴って?



赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える


野口雨情(のぐち・うじょう)作詞、本居長世(もとおり・ながよ)作曲のこの曲は、1922(大正11)年に発表された。

歌詞の3行目をよくご覧いただきたい。
「横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って」
・・・やっぱり、横浜のお話のようだ。

というわけで、まずは「海を渡ったはずなのに海を見ている」という悩ましい状態にある山下公園に設置されている像についてお話を伺いたいと思い、以前「横浜駅自由通路前「赤い靴の女の子」はいつ設置された?」でもお世話になった「赤い靴記念文化事業団」にお話を伺った。

お話を聞かせてくださったのは、団長の松永春(まつなが・はる)さん。

2014(平成26)年、20年の「ニャン生」を終えたのだという事業団のアイドル「へいちゃん」(美猫)の写真に囲まれた事務所でお話を伺った。
 


いただいた「へいちゃん」の写真。美猫だ
  

松永さんはこの日のためにジャケットを羽織ってくださった、お洒落な方だ

 
松永さんによると、「横浜にシンボルを作りたい」と設置された山下公園前の赤い靴の女の子像の除幕は1979(昭和54)年11月。1975(昭和50)年に像の設置賛同者による「赤い靴を愛する市民の会」が設立されてから、およそ3年半の歳月を要した。

―山下公園の赤い靴の女の子像は、海を見つめている姿で設置されていますが、これにはどんな意味が込められているのでしょうか?
「今でこそ海外にはすぐに行けるけれど、当時は大変な思いをしてみんな船で行ったんだよね。だからその海を見つめている」
 


女の子の見つめる海の向こうとは?

 
―これから行って、おそらくもう戻らないであろう土地を見つめているんですか?
「そう、そんな哀愁もあるよね」

―遠くに行く女の子の寂しさを象徴しているのでしょうか。
「もうひとつは希望もあるよね。どんなところだろうという」

―曲発表当時の大正時代の「異人さんの国」、アメリカとはどんな国だったのでしょう?
「僕の時代だと、かなり遠いところだよね。みんな船で行ったけど、行く人たちはみんな今生の別れみたいな、もう帰らない人も多かった。ひょいと行ってひょいと帰ってくるような費用を持っている人なんてなかなかいなかった」
 


海の向こうへ行くのは相当難しいことだったのだ(フリー素材より)

 
―渡航費用が高額だったようですが、当時の物価や外貨について教えてください。
「お給料が1万~2万円、『13,800円』って歌もあった。そして1ドルが360円。だけど日本にドルなんてなくて360円でドルは買えなかったから、400円で“闇ドル”というのを買った」
 


1ドルが400円って・・・(フリー素材より)

 
松永さんが初めて渡米したのは今から50年ほど前。このころですら海外に行くというのは、途方もない話だったのだ。それでも人々と触れ合い、教科書で見た『沃野千里(よくやせんり)の大平原』や横浜の姉妹都市サンディエゴを目の当たりにし「行っただけのことはあった」と振り返る。

1922(大正11)年に発表された「赤い靴」の女の子にとっては、未知なる場所であったことだろうが、どんな思いで海を渡り、どんな思いで異国の地を踏んだのだろう。

それを知る術はないが、2010(平成22)年にサンディエゴにも「女の子をアメリカに渡らせてあげたい」という思いからセーラー服姿の立っている女の子の像が設置された。長い時を経て、女の子はアメリカに辿り着いたのだ。
 


サンディエゴの「赤い靴の女の子像」除幕式(フリー素材)

 


赤い靴の女の子と横浜



事務局の方からは山下公園の「赤い靴の女の子像」のその後についても伺うことができた。

像の設置時の昭和50年代、海外は「まだまだ遠い、行って戻ることの難しい場所」だったが、次第に人々の憧れになっていった。

やがて子どもたちが留学などで渡航することを夢見るようになり「赤い靴の女の子像」に願掛けをしたり、手袋をあげたりするようになったそうだ。
横浜の子どもたちは「赤い靴の女の子=海の向こうに行く」という夢を叶えた女の子ととらえ、物言わぬ彼女と交流を始めたのだ。
 


花に囲まれて、きれいに保たれている像。決して孤独ではないのだ

 
「赤い靴文化事業団」の合唱団では『赤い靴』は5番まで歌われているのだという。

4番までの歌詞とは雰囲気も文字数も異なるこの5番は、発表されたものではなく、野口雨情の遺稿に旋律をつけたものだそうだ。
「帰って来(こ)」で終わるこの5番。この後、女の子の帰国はあったのか? この女の子の生涯はどこで終わったのだろう。
 


5番の歌詞。「赤い靴文化事業団」は遺族に許可を取って歌っているそうだ

 
最後に「この女の子にはモデルがいるのか」を訊ねると、松永さんは「あくまで歌。赤い靴の女の子の歌そのものをイメージした像なんです。詩人が異人さんの国に行ったと書いているのだから、女の子は行ったんですよ」とはっきりと仰った。

「赤い靴の女の子のモデルを検証する本が出版されるよりも前に、既に山下公園の像はあった」という言葉をヒントに、文献を探すことに。
 


この像の除幕は1979(昭和54)年11月