鎌倉小町通りの遺跡発掘現場!鎌倉武士の生活とは?
ココがキニナル!
鎌倉の小町通りに遺跡調査中という看板と囲いがあり、中には地面を掘っている人がいました。どんな遺跡があるのか非常に興味があります。遺跡の調査報告は一般人には公開される?(リグヒトさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
小町通りで現在発掘している場所は鎌倉時代の武家屋敷跡と推定され、調査後は集合住宅になる。報告書も刊行される予定
ライター:ハヤタミチヨ
今回取り上げるキニナル投稿は、武家の古都・鎌倉市。それも人でにぎわうことで知られる小町通りでの発掘だという。そんなところで発掘していれば人目につくし、確かにキニナルはずだ。早速現場へ行ってみよう。
鎌倉小町通の発掘現場へ
いつもにぎわっている「小町通り」
鎌倉駅からすぐに見える鳥居、ここから鶴岡八幡宮まで伸びる通りが「小町通り」だ。修学旅行や社会科見学の学生なども多く、平日昼間でも人が絶えない。店舗が並ぶ通りを大分過ぎ、鶴岡八幡宮までもうすぐという場所までいくと・・・
青い網目状のシートに、発掘調査実施中の看板
キニナル現場はここのことだろう。
撮影と取材を申し込むと、快く応じてくれた。
この現場の発掘調査を行っているのは「株式会社 博通(はくつう)」。土地を開発する事業者からの委託を受け、行政への届け出から報告書の刊行まで発掘に関わるプロセスを一括して任せられた発掘調査専門の会社だ。
株式会社博通・代表取締役の宮田眞(みやた・まこと)さん
取材に訪れた時には、この現場での発掘調査は既に終わっており、建設計画の変更で生じた追加調査を行っている最中。現在は調査が終了し埋め戻され、建設工事が始まっている。ここにはテナント付きの集合住宅が建設される予定。
発掘現場の様子
慎重に細やかに発掘が進められた
ある程度重機で掘ってから、人の手で細部を掘っていく。鎌倉は地下から水が出やすい土地柄で、この現場も水をせき止めながら作業したそうだ。
かわらけ(素焼きの陶器。主に食器で使われる)なども出土している
今回取材した場所の調査結果については、2022年か23年頃に報告書が発行されるとのこと。実は、今回取材した場所の隣の敷地が既に博通で発掘調査が行われており、報告書も刊行されている。
隣の敷地の発掘調査報告書
その敷地は14世紀初頭頃(鎌倉時代後期)の武家屋敷の一画、それもかなり上級の武士が住んでいたと推定されている。敷地内の持仏堂と推定される石畳や、建物が火災にあったらしき痕跡もあったそうだ。
取材した現場も同じく鎌倉時代に武家屋敷があったと推定されるそうなので、既に刊行された隣の調査結果とあわせて分析がされるだろうか。楽しみに待ちたい。
この発掘現場で暮らしていた人たちは、どんな人たちだったのか?
鎌倉時代の鎌倉ってどんな町だったのか?武家屋敷ってどんな屋敷だったのか?
待つ間に、文献の方からここに住んでいたであろう鎌倉武士たちの生活を、ちょっと探ってみたい。
鎌倉時代の鎌倉ライフ
まず、発掘現場のある鎌倉、鶴岡八幡宮の周辺はどのような町だったのか。
「鎌倉時代」というだけあり、鎌倉は幕府を中心とした武家政治の中心地となっていた。とりわけ、鶴岡八幡宮の周辺は、幕府の重要な機関がおかれている。現在の日本で言えば東京の永田町のようなところだろうか。
ざっくり鎌倉時代の若宮大路あたりに、現代の鎌倉駅と発掘現場をのせてみた図
鶴岡八幡宮から海の方へ伸びる若宮大路(わかみやおおじ)は鎌倉時代にもあり、この道沿いに武家の屋敷が並ぶ。しかし、これらの武家屋敷は大路に背を向けて建てられ、入り口は大路側になかったそうだ。しかも、大路の両側には幅3メートルもの溝もあったという。ちなみに現在の小町通りは近代にできた通りなので、鎌倉時代にはなかった。
このようなことから、若宮大路は人が通る生活道路ではなく参拝の時などに通る聖なる道として利用された道で、さらには西から来る敵を防ぐ防衛ラインの役割もあったのではないかといわれている。考えてみれば、鎌倉幕府初期の政治中枢だった大蔵幕府(『大倉幕府(おおくらばくふ)』とも呼ばれていた)、それが移転した宇都宮辻子(うつのみやずし)、若宮大路幕府、みな若宮大路の東側にある。
そうなると、若宮大路の西側はいってみれば武家屋敷街。その屋敷の建物について、絵巻物で見てみよう。
蒙古襲来絵巻(写)(国会図書館デジタルライブラリーより)
上の絵は、九州の御家人である竹崎季長(たけざき・すえなが)が、蒙古襲来(もうこしゅうらい)で働いた武士が恩賞をもらうために、恩賞担当の安達泰盛(あだち・やすもり)の屋敷を訪ねたという筋の絵巻の一部だ。安達泰盛の屋敷があったのは若宮大路ではなく少し離れた甘縄神明宮(あまなわしんめいぐう)のあたりといわれているが、上級武士の屋敷の一例として見てみたい。
館の周囲には堀があり、堀を越えて門には警固の武士がいる。敷地内にも板の仕切りがあり、そこにも警固の武士。絵の右下に、とてもダルそうに見える武士がいるのは、現代の公務員に置き換えてもありがち?
蒙古襲来絵巻(写)(国会図書館デジタルライブラリーより)
絵の続きは、入り口から庭を抜けて仕切りの奥にある主人の間だ。建物は平安時代のイメージが強い「寝殿造」の名残が残る。基本は板間で、畳が部分的に敷かれているのも建築の特徴だ。
絵巻では玄関からすぐに主人の建物があるように見えるが、上級武士の屋敷ともあれば実際はもっと広い庭もあるのが一般的で、そこで馬や弓の鍛錬もしていた。流鏑馬(やぶさめ)など広い場所を必要とする鍛錬は由比ヶ浜へ繰り出し、狩りも行われていた。狩りで仕留めた獲物は、調理して食卓にならんでいただろう。
先にも紹介した取材現場隣の報告書によれば、そこでは獣の骨、貝、果実の種子といった食べ物のゴミや囲炉裏などもある、現在の台所にあたる厨と推定される跡も出てきたそうだ。
ただ、鎌倉の武士の食事は玄米を基本とし、かなり質素なものだったらしい。大河ドラマの主役になった北条時宗の父、北条時頼(ほうじょう・ときより)の逸話としてこんな話がある。時頼は当時の鎌倉武士の中で一番の権力者ともいえる人で、ある夜「1人で酒を飲むのもつまらないから付き合え」と人を呼びつけたはいいが、酒の肴がない。呼ばれた人が厨を探し、皿についた味噌を見つけて時頼へ持っていくと、それをなめながら機嫌よく酒を飲んだという。鎌倉武士の質素な生活と剛健さを伝える話として知られている。