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新5000円札の津田梅子の晩年と鎌倉の別荘地の歴史とは?

新5000円札の津田梅子の晩年と鎌倉の別荘地の歴史とは?

ココがキニナル!

新5000円札の津田梅子は津田塾大学の創始者として知られるが果たして神奈川県には関係があるだろうか?(編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

津田梅子は晩年を鎌倉の別荘で療養生活を過ごし亡くなった。当時の鎌倉は著名人の別荘が集まっていた。梅子の父である津田仙も、鎌倉教会と深い関係がある。

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ライター:ハヤタミチヨ

新1万円札の渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)同様、新しい5000円札の肖像として描かれることとなった津田梅子(つだ・うめこ)にも、注目が集まる昨今。 

津田塾大学の創始者として知られている彼女だが、神奈川県と何かつながりがあるのかなー?と調べてみたところ、亡くなったのは鎌倉の別荘とのこと。
津田梅子と鎌倉の関係は?そして当時の鎌倉の別荘事情は?
 
キニナル歴史を探ってみた。
 


新5000円札(見本) 

 
 
 
津田梅子ってどんな人?
 
津田梅子は津田塾大学の創立者で、日本における女子高等教育に力を尽くした人として知られている。梅子が生きた明治時代の女性の地位は低く、女子が受ける教育といえば、行儀作法などのいわゆる花嫁修業のようなものでしかなかった。
だが、1900(明治33)年に梅子が創立した「女子英学塾(津田塾大学の前身)」は、その名の通り英語に力をいれた教育を行う学校だ。さらに、女性は結婚して家庭で夫に尽くすことが常識だった時代にも関わらず、梅子は生涯独身を貫き、女子教育のために人生を捧げている。
 


津田梅子(国立国会図書館デジタルライブラリー)

 
梅子がこのような先進的な考えを持ち、実行することができたのも、少女時代をアメリカで過ごした影響が大きいだろう。明治維新で新しい時代が始まったばかりの1871(明治4)年、政府の要人や留学生がアメリカやヨーロッパへ派遣された「岩倉使節団」の中に、梅子も加わっていた。なんと、当時の梅子は満6歳。その後はアメリカで教育を受け、11年後の1882(明治15)年に帰国する。
 
だが、帰国した梅子を待っていた日本は、それまでとは何もかも違う社会だった。特に、女性の立場があまりに低い状況に驚き、これを何とかしたいという思いを強くする。皇族や華族の子女が通う「華族女学校」(かぞくじょがっこう)の英語教師にもなるが、1889(明治22)年に再びアメリカへ。大学で生物学を研究しながら、日本の女性がアメリカで教育を受けられるようにと講演して寄付を募り、「日本婦人米国奨学金」を設立した。
 
3年後、梅子は日本へ帰国すると、再び教師を勤めながら、女子に高等教育を行う学校の設立に向けて動く。こうして、1900(明治33)年、女子英学校が開校した。しかし、その後に体調を崩し、塾経営の基礎が整った頃の1919(大正8)年に塾長を辞任。療養のために移った鎌倉の別荘で、1929(昭和4)年、64歳で生涯を終える。
 
実は、梅子と鎌倉の縁は、その親から始まっている。考えてみれば、まだ6歳の娘を親の付き添いもなく海外へ行かせるなんて、現代の親でも珍しいだろう。そんな梅子の親がどんな人だったのか、鎌倉とどのような縁があったのか、見てみよう。
 
 
 
津田梅子の父・仙(せん)はどんな人?
 
1908(明治41)年4月。終点の横須賀駅に着いた機関車の車中に、一人の男性が眠っているかのように座ったまま残っていた。駅員が声をかけてみると、男性はすでに息絶えていた。
 
この男性が津田仙(つだ・せん)、津田梅子の父親である。農学者として多大な功績を残し、またキリスト教の信仰者として、青山学院(現在の・青山学院大学)の創立に深く関わった人だ。
 

 
この時の仙は、事業を息子に引き継いで引退し、鎌倉の別荘で過ごしていた。この日は東京にある長女の嫁ぎ先から、月桂樹の苗を手荷物として、鎌倉駅で降りて帰宅するはずだった。享年71歳、脳溢血で亡くなっている。
 
仙は、佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)に仕える武士の小島家に生まれた。この佐倉藩は蘭学などの西洋の学術を取り入れることに積極的で、仙もオランダ語を学び、江戸や横浜で英語も学んでいる。やがて幕府の家臣だった津田家へ婿養子に入り、長女が生まれ、次女の梅子が誕生する。さらに、幕府の外国奉行の通訳に採用された仙は、梅子が3歳の時、役目によりアメリカへ渡り、半年ほど滞在する。この海外経験が、その後の仙に大きな影響を与えた。
 
幕府が滅亡して明治時代になると、仙は東京・築地にある外国人用のホテルに勤める。そこで、日本には外国人の食事に出せる新鮮な西洋野菜がなく、缶詰ばかりを使っていることに気づき、アメリカからアスパラガスやリンゴなどの種を取り寄せ、栽培を始める。これをきっかけとして、仙は農学の道で多大な功績を残していった。
 


仙が紹介されている『新聞記者奇行伝 初編』1881(明治14)年(国立国会図書館)

 
そんな仙が、ホテルをやめて国の事業に携わる北海道開拓使に勤務している時、そこで女子留学生の募集が始まる。当時の開拓使でトップだった黒田清隆(くろだ・きよたか)の意向だった。清隆は、開拓を学ぶために渡米した時、アメリカの女性に男性と同じ教育が行われていることを知り、衝撃を受けた。子どもが幼いうちは家庭で母親が育てることは欧米も日本も同じだが、欧米では母親に学があるので、子の教育に良い影響がある。国の発展のためには良質な人材の育成が必要で、そのためにも女子教育は必要だと考えたことから、開拓使では女子留学生を募集したのだ。この女子留学生に、仙は梅子を応募させた。実際にアメリカを見た仙も、清隆と同じ思いを持っていたのかもしれない。
 
 
 
津田仙と鎌倉メソジスト教会
 
また、仙はクリスチャンとしても知られており、妻とともにメソジスト派(キリスト教プロテスタントの教派の1つ。現在はほとんどが日本基督教団に合同している)の宣教師から洗礼をうけている。晩年に鎌倉の別荘で過ごしていた仙が深く関わっていたのが、現在の「鎌倉美以(メソジスト)教会」だ。この鎌倉美以教会は、現在の鎌倉にいくつもあるキリスト教の教会の中でも最も古い教会とされており、現在は「日本基督教団鎌倉教会」となっている。
 
実は、仙が臨終の際に鎌倉駅から一緒に帰宅するはずだった手荷物の月桂樹が、この教会に植えられている。
 


日本基督教団鎌倉教会の月桂樹 

 
月桂樹は、敷地内にある会堂の脇、付属のハリス記念鎌倉幼稚園への門手前にある。教会の森稚子(もり・わかこ)さんによれば、木は長年の風雨などにより弱っており、なんとか枯れないように手を尽くして維持しているとのこと。
 
教会に伝わる話しによれば、仙が亡くなった時に、教会の石川和助(いしかわ・わすけ)牧師が鎌倉駅へ仙の荷物がないかを確かめにいくと、持ち主不明の手荷物が残っていたという(※当時の鉄道では利用客が駅から駅へ大きな荷物を送る託送が行われていた)。その後に、仙が教会へ植えるように言い残していたか、遺族の意志でか、経緯は定かではないが、月桂樹は石川牧師により教会に植えられたそうだ。
 
この時の梅子は、女子英学塾を設立して8年とようやく基礎も定まった頃で、1年間の外遊から3ヶ月前に帰国したところだった。仙死亡の一報を受けて、すぐに駆けつけたことだろう。
 


会堂は1926(大正15)年の建築。鎌倉市の景観重要建築物等として指定されている

 
農学で大きな業績を残し敬虔(けいけん)なクリスチャンでもある仙だったが、やはり欠点もあったようで、梅子と険悪だった時期もあるようだ。設立した農学校も、経営難で閉校している。だが、引退して移り住んだ鎌倉での仙は、妻の琴を聞いたり、碁を楽しむなど、穏やかな生活だったという。仙が没した翌年、その妻も鎌倉で息を引き取った。