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新5000円札の津田梅子の晩年と鎌倉の別荘地の歴史とは?

新5000円札の津田梅子の晩年と鎌倉の別荘地の歴史とは?

ココがキニナル!

新5000円札の津田梅子は津田塾大学の創始者として知られるが果たして神奈川県には関係があるだろうか?(編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

津田梅子は晩年を鎌倉の別荘で療養生活を過ごし亡くなった。当時の鎌倉は著名人の別荘が集まっていた。梅子の父である津田仙も、鎌倉教会と深い関係がある。

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ライター:ハヤタミチヨ

明治時代の鎌倉の別荘事情
 
津田梅子もその父母にも鎌倉に別荘があったように、明治時代の鎌倉は、皇族の御用邸や、華族、政治家、軍人、文学者などがこぞって別荘を建てており、建築ラッシュともいえる状況だった。
 


1912(明治45)年『現在の鎌倉』より(国立国会図書館)

 
1912(明治45)年発行の『現在の鎌倉』にある「別荘一覧」を見ると、画像のような別荘一覧が40ページも続いており、多くの別荘があったことがわかる。なぜ、こんなに鎌倉が別荘地として人気が出たのだろうか?
 
1876(明治9)年に東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれ、明治天皇と皇太子の侍医(じい)にもなったドイツ人の医師ベルツは、予防医学の観点から温泉や保養地の調査を行っており、その中で、湘南や鎌倉に注目。さらに、内務省衛生局長(現在の厚生労働省の前身)の長与専斎(ながよ・せんさい)も、鎌倉の海が海水浴に適していると紹介し、1884(明治17)年に由比ガ浜へ別荘を建てる。そこへ1889(明治22)年に横須賀線が開通したことで交通の便がよくなり、別荘建築に拍車をかけた。
 
ちなみに、別荘といえば一時的に休暇を過ごすための居宅というイメージだが、当時は「常住の別荘」という表現もあり、鎌倉では、新しく移住してきた人を「別荘者」と記すこともあったようだ。例えば、津田仙は引退後に鎌倉に常住していたし、梅子もその後は鎌倉の別荘で亡くなるまで10年ほど過ごしているので、常住の別荘者ということになるだろう。
 
 
 
梅子の別荘があった地・稲村ヶ崎
 


『日本之名勝』より稲村ヶ崎(国立国会図書館)

 
梅子の両親が住んだ鎌倉の別荘は乱橋(みだればし)材木座、その後に大町へ移ったが、梅子の別荘は稲村ヶ崎(当時の住所名では極楽寺)にあった。1900(明治33)年発行の『日本之名勝』では、稲村ヶ崎の紹介で「近境、貴顕紳士の別墅多く設けらる」と記しており、この頃から別荘が増えたようだ。1910(明治43)年には江之島電氣鐵道(江ノ電)が全線開通したことも、別荘建設に拍車をかけただろう。

この稲村ヶ崎を、梅子がいた当時にあった別荘をたどりながら歩いてみよう。
 

 
先に、駅から海へ出て、浜から鎌倉方面を見ると、海に突き出して鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区(稲村ガ崎公園)が見える。この公園の敷地には、長州藩出身で明治政府では元老になった井上馨(いのうえ・かおる)の別荘があった。
  
海をひとしきり堪能したら、山のほうへ道を戻り、七里ヶ浜の方向へ。

江ノ電の稲村ヶ崎駅から少し歩くと、聖路加国際大学の施設「アリスの家」がある
 


「アリスの家」

 
ここは、前の5000円札のモデルだった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の別荘があった場所だ。ここから橋の向こうに見える山の中腹に、梅子の別荘があった。なんと新・旧5000円札2人の別荘が、ご近所さん同士だったということになる。
 


新渡戸稲造(国立国会図書館)

 
実は新渡戸稲造と津田梅子は親しい間柄で、父の仙とも交流があった。稲造は仙や梅子と同じようにプロテスタント系のクリスチャンで、農学を研究しており、仙の死後には新聞に追悼文も寄せている。1918(大正7)年に開学した東京女子大学の初代学長となるなど女子教育にも理解があり、梅子の創立した女子英学塾の運営にも関わっていた。著書の『武士道』が有名だが、これは、外国人に対して日本人の精神や道徳規範を紹介したものだ。
 

 
音無橋を過ぎて、現在レストランになっている敷地あたりに、梅子の別荘があったという。正面は海になるので、眺めもよかったはず。
 
鎌倉での梅子は、読書や編み物を日課とし、年に1,2回の塾訪問をしながら、日々を過ごしていたらしい。病で入退院を繰り返し体の不自由はあっただろうが、穏やかな生活を送ることができたようだ。
 
梅子の別荘があった場所から、少し七里ヶ浜方面へ歩くと、横浜生まれの画家である有島生馬(ありしま・いくま)の別荘があった場所だ。ちなみに、有島生馬は、兄の有島武郎(ありしま・たけお、小説家)、弟の里見弴(さとみ・とん)とともに、幼少時を父が建てた由比ヶ浜の別荘で過ごしたこともある。
 


画像向かって左、現在の老人ホームあたりに生馬の別荘があったらしい

 
「現在の稲村ヶ崎、当時の極楽寺村は想像以上に美しく、私は忽ち虜になってしまった」
生馬と一緒に鎌倉へ移り住んだ生馬の娘・暁子(あきこ)の遺稿集に、この地に来た時の思い出が記されている。
梅子も同じように、この地の美しさに惹かれたのかもしれない。

1929(昭和4)年8月の夜、この地で津田梅子は人生を終えた。享年65歳。死因は父と同じ脳溢血だった。葬儀は女子英学塾で行われ、新渡戸稲造が弔事を述べている。
現存しないが長文の遺書もあったそうで、そこには塾の教職員恩給基金創設のために寄付することや、自分の墓はできれば国分寺(女子英学塾の移転先。この時は建築途中)に作って欲しいという内容が記されていたという。
 
 
 
取材を終えて
 
仙と梅子の生涯を見ていくと、国の未来を担う教育に対する情熱や、外国への理解、クリスチャンであることなど、この親にしてこの子ありともいうべきか、似ているように感じた。そんなことを言うと、天国の津田親子に怒られてしまうかもしれないけれど。
 
強い使命感を持って人生を走り続けた親も子も、鎌倉で穏やかに過ごして人生を終えた。
海も近い風光明媚なこの別荘地の歴史を知ると、散策もまた、感慨深いものになる。
 
 
-終わり-
 
 
取材協力
日本基督教団鎌倉教会
 
参考文献
山崎孝子『津田梅子』吉川弘文館1988
『鎌倉市史』(近代通史編)1994
島本千也『鎌倉別荘物語』1993
有島暁子『松の屋敷』かまくら春秋社1983年

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