幻の高速道路計画「東急ターンパイク」の真相は?
ココがキニナル!
1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります(常盤兼成さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1954(昭和29)年に東京急行電鉄が事業計画を国に免許申請したが、実現することはなかった。その痕跡は残念ながらどこにも見つけることはできない。
ライター:久保田 雄城
バブル時代、調子に乗ってポルシェ911(もちろん中古!)を購入するほどのカーマニアだった筆者。あの頃は週末になると箱根ターンパイク(現・TOYO TIRES ターンパイク)まで走りにいったものだ。
そこに「東急ターンパイク」についてのキニナルが。渋谷から江の島までの高速道路? そんな夢のような計画が半世紀以上前にあったの? そんなわけで筆者は、この東急ターンパイクに詳しい国道愛好家の松波成行さんに会いに、夜の日吉のべトナム料理店へと出かけていった。
渋谷~二子玉川~江の島を結ぶ日本初の高速道路構想
夜になっても学生の多い日吉駅
最初に松波さんが見せてくれたのは「OUTLINE OF“TOKYU”TURNPIKE ROAD PROJECT」(東急ターンパイク計画概要)と表紙に記された15ページにわたる英文書類。1954(昭和29)年6月に東京急行電鉄(以下、東急)が作成した。これは素人の筆者の目にも、大変貴重なものだということがわかるものだ。
「ターンパイク」という言葉の語源は、19世紀初頭、イギリスの馬車専用道路の出入り口に備えられた横木のことで、町中に馬が入らないために設けられたもの。横木を押して出入りできるのは人間だけで、馬だけではそこから出ることができなかった。この仕組みが後の“料金ゲート”となり、そこから「自動車専用道路」を意味するようになったようだ。
英文で書かれた「東急ターンパイク計画概要書」
英語が苦手な筆者には内容がちんぷんかんぷんなので、さっそく解説してもらおう。
「この資料は知人から入手したものです。残念ながら提出先は不明ですが、英文で書かれているところから、外資系企業に向けてのものだったのではないかと推測されます」
この概要書から見てとれるのは、東急ターンパイクが、渋谷から二子玉川を経由して江の島(鵠沼)まで計画されていたことだ。
赤線が、それぞれ「東急ターンパイク」と「箱根ターンパイク」(画像提供:松波氏)
<クリックで拡大>
東急田園都市線のルーツは高速道路だった?
この資料が作成された1954(昭和29)年当時、日本の道路の舗装率はままならず、一方で戦後から一貫して増え続ける車両で、一般道は渋滞が深刻であると書かれている。その打開策として見出されたのが、高速道路のコンセプトとなる自動車専用の有料道路だった。
「東急は当時、鉄道だけではなくバスも次世代の交通手段として考えていたことがうかがわれます。前年の1953(昭和28)年から多摩田園都市構想も進められていました」
松波さんの言う「多摩田園都市構想」とは、東急田園都市線の梶ヶ谷駅から中央林間駅までの地域の宅地造成だけに留まらず、街づくりも含めたエリア全体の有効活用をコンセプトとした計画のこと。
また、「東急ターンパイクのルートは、二子玉川を経由する現在の東急田園都市線を的確に捉えている点において、多摩田園都市構想にかける想いの原型が、もしかすると鉄道ではなくバス主体であったのではないかと思えてなりません」と、熱い口調で松波さんは話してくれた。
1954(昭和29)年頃の都内の渋滞(画像提供:松波氏)
この英文書類が作成される3ヶ月前、3月30日に東急は渋谷から江の島までの47.2キロ、9つのインターチェンジを持つ高速道路「東急ターンパイク」事業を、国に免許申請している。
そして同年8月23日には「箱根ターンパイク」(小田原~箱根、全長18キロ)、その3年後の1957(昭和32)年8月26日にはこの2つの路線を結ぶ「湘南ターンパイク」(藤沢~小田原、全長30キロ)の免許も申請した。単なるプランではなく、実現にむけて具体的に動きはじめていた。
東急が描いた渋谷から江の島、そして箱根をつなぐ高速道路の夢は、もうそこまできていたのだ。
ここで、ふと素朴な疑問がわいてきた。日本で初めての高速道路構想は、この「東急ターンパイク」なのだが、有料の自動車専用道路も同じなのだろうか?
そこで後日、筆者は図書館に足を運び調べてみた。すると1931(昭和6)年7月に日本自動車道という民間会社が、大船~江ノ島間に建設したものが、日本初の有料の自動車専用道路だったことがわかった。東急ターンパイク構想からさかのぼること、20年だ。
もっとも、本格的に自動車専用道路が整備されていくのは、後述する日本道路公団が、1956(昭和31)年に設立されるまで待たなくてはならなかったのだが。