幻の高速道路計画「東急ターンパイク」の真相は?
ココがキニナル!
1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります(常盤兼成さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1954(昭和29)年に東京急行電鉄が事業計画を国に免許申請したが、実現することはなかった。その痕跡は残念ながらどこにも見つけることはできない。
ライター:久保田 雄城
どうして東急ターンパイクは幻に終わったのか?
話を戻そう。次に松波さんが見せてくれたのは、「一里塚」というタイトルが付けられた一冊の本だった。
これは日本語で書かれている。この本の著者、都市計画家の近藤謙三郎(1897~1975)は、戦後、一貫して高速道路推進派だった。ちなみに、近藤はこの本を著した3年後の1967(昭和42)年、東急道路の社長に就任している。
近藤謙三郎著「一里塚 道路・交通の論文集」(画像提供:松波氏)
特に、東京都内における首都高速道路(首都高)計画の推進派として近藤の名は通っていた。しかし当時、建設省(現・国土交通省)がこの計画に乗り気でなかったことから、東急という民間資本ではあったが高速道路のコンセプトとなる自動車専用道路について、彼は強く推奨していた。
この「一里塚」には、当時の政府が日本全国で補填する道路関係の予算96億円に対して、ターンパイクの建設費が120億円近くなる概算が述べられている。そのスケールの壮大さがわかる数字だ。
にこやかながらも熱く話してくれた松波さん
これほど綿密に計画され、国に対して免許申請まで行われた「東急ターンパイク」はどうして実現しなかったのか。なぜ幻と終わったのだろうか。
この謎を解く鍵もやはりこの本の中にあった。
「運輸省はこの出願を全面的に支持したが、驚いたことに建設省が渋い顔をして願書は係員の机の上に積み重ねられた。渋った理由が『かかる重要路線を民間企業に委ねてよいか悪いか』であった。さればとて却下する元気はなかった。却下すれば法律違反の罪を犯すことになる」
これには少々説明が必要ですね、と松波さんが補足してくれた。当時、ターンパイクのような民間企業の自動車専用道路の管轄は運輸省、公営の東名や名神の高速道路は建設省、と道路の種類によって所管が別だった。「ですから、運輸省は東急ターンパイクを支持し、建設省は、その面子から支持しなかったのではないかと思われます」
当時の渋滞は、なんだかのんびりした感じだ(画像提供:松波氏)
この本からの引用を続けよう。
「(東急ターンパイクの免許申請の2年後に日本道路公団が設立されて)公団は東急の路線に目をつけて、これを自分の仕事にしたいと思った。東急路線とほとんど全く重複する路線を選んで横浜バイパスと名付けた。建設省はこれに着工命令を下した。されば東急ターンパイクの出願は却下したかというに、それは出来兼ねた。何故かならばこれは渋谷=箱根を結ぶ雄渾(ゆうこん:スケールの大きいこと)な路線であるのに比べて、公団のは単なる横浜地区のバイパスだったからである。何とその企画の近視眼的であったことよ」
ここで述べられている、「横浜地区のバイパス」とは、現在の第三京浜のこと。つまり、公団は、自身のプランではなく東急のターンパイク計画の一部をそのまま流用したということになる。
このようにして、免許申請書は、担当者の机の上に放置されたままになる。そして埃に埋もれ、季節はめぐり、歳月は流れ、やがてその書類はついにちりとなり空に舞い上がっていったのだ。
そんなわけで横浜のみならず、事業計画の地域内のどこにも、「東急ターンパイク」の痕跡を見いだすことは残念ながらできない。
東急ターンパイク区間距離表(画像提供:松波氏)
<クリックで拡大>
松波さんは言う。「東急ターンパイクの『渋谷~江の島』間は、事実上申請がボツにされました。しかし、その後の建設省、すなわち日本道路公団の第三京浜とは別件で進んでいた横浜新道の湘南方面へ伸びるルートは、東急ターンパイクと酷似しています。偶然の一致にしてはできすぎているのではないかと僕はずっと思っているんです」
夢のかけらとしての「箱根ターンパイク」
ところで、3本のターンパイク計画で唯一、認可されたのが、「箱根ターンパイク」だ。なぜこれだけが認可されたのだろうか?
「東急の出願のうちで小田原・箱根区間だけが、『こんな小区間の観光路線ならば東急にやらせてやっても支障あるまい』という見解のもとに条件つきで免許になった」と、「一里塚」には書かれている。
筆者はこんな歴史も知らずに前述したように、うさぎのごとく「箱根ターンパイク」を、かつて上ったり下ったりしていた。しかし、この唯一の東急のターンパイクも2004(平成16)年に、オーストラリアの投資会社に身売りされ、2007(平成19)年には、「箱根ターンパイク」という名称も消滅した。そして夢は完全に終わりを告げた。
TOYO TIRESターンパイク(同webより)
取材を終えて
東急が夢みた、東急ターンパイクはこのようにして幻に終わった。しかしこの夢は形を変えて、1966(昭和41)年「東急田園都市線」という名の列車の路線として現実となった。
幻に終わったもう一つの未来について考えるのは、とってもセンチメンタルな気分になる。そしてその未来が夢のあるものであればなおさらだ。
「一里塚」に書かれているように、この東急ターンパイクの構想を潰したのが、役人の面子であるとすれば、それはあまりに悲しく腹も立つ。けれど、それはすべてもう半世紀以上も前のこと。あまりに遠い昔だ。
後日、東急の広報課に問い合わせをしたところ、「今後の道路事業については、全くの白紙です」との回答であった。また、国土交通省道路局にも取材を試みたが、「古い案件なので、担当者もおらずお答えできない」とのことであった。
筆者は投稿者の「キニナル」がなければ、東急ターンパイクという計画があったことさえ知ることはできなかった。キニナル投稿者、そして詳細な資料を持って解説してくれた松波成行さんに感謝したい。
―終わり―
山猫ffmさん
2017年11月07日 14時48分
>東急が夢みた、東急ターンパイクはこのようにして幻に終わった。しかしこの夢は形を変えて、1966(昭和41)年「東急田園都市線」という名の列車の路線として現実となった。この記事おかしいでしょ、それよりも前に今の田園都市線の経路の前身の玉川線は既に存在していたんですから。
のんべえさん
2016年02月28日 00時04分
当時の東急、発想がデカいですね。
平八郎さん
2013年05月13日 10時08分
【日本自動車道という民間会社が、大船~江ノ島間に建設したものが、日本初の有料の自動車専用道路】・・・・これって湘南モノレールに沿うように作られてる、「大船~片瀬江ノ島」のルートでは?私が小さい頃は、大船の狭い陸橋越えて、引込み線の踏み切り渡った所に料金所があった様な?うろ覚えの記憶ですが、懐かしく思いました。