銀座や浅草で有名な老舗百貨店「松屋」は横浜発祥って本当?(後編)
ココがキニナル!
銀座の松屋が昔、石川町付近にあったらしいのですが面影は?(yokkoさん)松屋が、単に伊勢佐木町にも有ったし戦前吉田橋のたもとにあったが位置関係がわからない(ushinさん)
はまれぽ調査結果!
吉田橋の松屋呉服店は戦後の長期接収により閉店。横浜支店は伊勢佐木町へ移るもオイルショックの影響から1976年に閉店し、横浜から姿を消した
ライター:永田 ミナミ
前回までの年表
今日において銀座と浅草における象徴的な百貨店「松屋」を、発祥の地である横浜での歴史に焦点を当てて前編(石川町創業〜関東大震災)、中編(震災後〜伊勢佐木町進出)とたどってきた。
その流れを年表にまとめてみるとこんな感じである(年表1) *画像をクリックで拡大
年表中にある図1〜3がこちらで
図4〜6がこちらである
1930(昭和5)年ごろの伊勢佐木町周辺の百貨店位置関係はこんな感じ
かつて吉田橋の松屋呉服店があった場所は現在、車窓からはこんな眺め
近づくとネット越しに首都高を走る無数の車の音が低く響くばかり
1930(昭和5)年に完成した吉田橋横浜支店(提供:株式会社松屋)
このような瀟洒(しょうしゃ)な建物が建っていた名残は自動車と電車の音に掻き消され見当たらない。ちなみにこの本建築の完成にともない、馬車道別館は閉鎖される。
ちょうどここにすっぽりおさまるように建っていたのではないか
さて、今回は関東大震災後の年表2に沿って歴史を見ていくことに *画像をクリックで拡大
伊勢佐木町での動き
さて、中編の最後でも書いたが、伊勢佐木町で野澤屋と軒を並べていた越後屋呉服店が1933(昭和8)年8月に閉店する。
年表2は複雑なのでまずはこのあたりの部分である *画像をクリックで拡大
1931(昭和6)年に松屋呉服店横浜支店と同様、地上7階、地下1階コンクリート造の新店舗を開店させたものの、1930(昭和5)年の昭和恐慌の影響を受け、新店舗の莫大な建築費も未払いとなってしまう。そして建設から1年もたたない1932(昭和7)年5月から休業していたところに、横浜に歴史を持つ松屋呉服店が買収を依頼されたのだった。
そして1934(昭和9)年6月3日、伊勢佐木町に「鶴屋」が開店するのだが、開店から1ヶ月もたたない7月1日に「壽百貨店」として再開店することになる。
この複雑な経緯については次で詳しく述べる
百貨店と小売店
1930年代は百貨店間の競争が激化した時期であった。支店を増やし、主要駅からの顧客送迎バスを運行し、無料配送区域を拡大するなどのサービス競争が過熱していたほか「十銭ストア」のような均一ストアも数多く設置された。
こうした競争は既存の小売店の反百貨店熱を招き、一方で各百貨店にとってもサービスの競争が大きな負担となっていった。このため自主規制に動いた百貨店協会(松屋・阪急・ほてい屋・大丸・高島屋・十合・野澤屋・松坂屋・丸物・三越・白木屋)が1932(昭和7)年に自制声明書を発表した。このほか、同年に商品券取締法が施行され、翌1933(昭和8)年に「日本百貨店商業組合」が設立された。
越前屋呉服店の買収はそうした動きが起こる前に決まっていたことだが、自制声明書に「支店・分店の設置は当分おこなわない」という約定があったため他百貨店からの反対の声があがった。そこで「松屋」として開店することはやめ、1934(昭和9)年5月15日に「株式会社鶴屋」を設立し「鶴屋」として開店した。
「六月三日鶴屋の開店」「十日まで開店福引売出し」の横断幕が見える(提供:株式会社松屋)
ところが「鶴屋」という名を使うことにも問題があるとされたため、本支店関係やこれに類する関係がないことを示すため、取締役の交代や、「鶴屋」または「松屋」の名前は使用しないことなどを発表。そして7月1日「株式会社壽百貨店」に商号を変更し、包装紙など「鶴屋」のマークが入ったものをすべて「壽百貨店」のものに作りかえた。
「歓楽の巷伊勢佐木町通り[寿百貨店付近] 」(提供:横浜都市発展記念館)
こうして1934(昭和9)年7月1日「壽百貨店」として再開店することになったのである。そしてこの変更にともない、壽百貨店は大衆向け商品、吉田橋の松屋呉服店はやや高級品という差異化も図られた。
戦禍の松屋
関東大震災後の混乱と度重なる不況を乗り越え、結果的に震災前よりも充実した松屋呉服店は、横浜では吉田橋の「松屋呉服店横浜支店」に加え「壽百貨店」、東京では銀座の「松屋呉服店本店」「松屋呉服店浅草支店」「神田今川橋松屋家庭部」という店舗展開となり、安定した経営を続けていく。
ちなみに関東大震災後に開設された大森売店は1933(昭和8)年まで存続した。
いちばん下の野澤屋以外、年表のすべて松屋と松屋に近い壽百貨店となった *クリックで拡大
しかし、1930年代は少しずつ戦争の影が広がっていく時代でもあった。やがて太平洋戦争に突入し、1942(昭和17)年には今川橋松屋家庭部が店舗供出のため閉鎖。浅草支店も1942年から翌年にかけて店舗の大部分を供出した。
横浜でも吉田橋松屋呉服店が1944(昭和19)年2月17日、供出準備のため暫時閉店となり、3月1日に海軍航空技術廠支廠(かいぐんこうくうぎじゅつしょうししょう)に供出。ただし、この全館供出は伊勢佐木町の壽百貨店を吸収合併するという条件で進められたものであり、同年4月11日「壽百貨店」は「松屋呉服店横浜支店」となって開業した。そして翌5月、伊勢佐木町の横浜支店も5〜7階を供出した。
やがて戦況は悪化し、1945(昭和20)年に本土爆撃が本格化していくと、2月25日に閉鎖中の今川橋松屋家庭部が焼失。次いで3月10日の東京大空襲で浅草支店が大部分を焼失。5月25日には銀座店も上層階を焼失した。