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火事で焼失した伊勢佐木町の「根岸家」。その歴史とその後は?

ココがキニナル!

かなり昔に火事で焼失した伊勢佐木にあった根岸家について歴史とその後が知りたいです。それに付随してメリーさんについても調べてみてください。 (doramucanさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

戦後間もなく誕生し、隆盛を誇った根岸家も、1980(昭和55)年に火事で消失。現在、東神奈川にその血脈を受け継ぐ「大衆酒場 根岸家」がある。

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ライター:松崎 辰彦

根岸家の様子



「根岸家は1階が食堂形式で、2階がお座敷でした。1階にはテーブルとカウンターがありました。100人以上入れる空間で、当時はいつ行っても50人ほどの客がいたのではないでしょうか」
 


根岸家の中の様子(画像提供:横浜市史資料室)


根岸家の細部を語る松葉さん。輝かしい青春時代だったのだろう。
「焼き鳥からラーメンから、根岸家には何でもありました。バンドが入って、演奏していました。お客はGI(アメリカ兵)から日本人、ヤクザ、愚連隊などありとあらゆる人がいました」

ほかのキャバレーから流れ込んでくる男性、反対に根岸家から別のキャバレーに流れる男性など、人の流れは絶え間なかったようだ。
「言語障がいの女の子なんかが外人のお客をとろうとそのへんのテーブルに座っているんですよ。その子たちがいい子たちでしてね・・・」

そうした中でケンカも頻発し、松葉氏もアメリカ兵と一戦交えたりした。
「どうしてケンカなんかするのかって? それはですね、当時はアメリカ兵が娼婦の女の子をいじめたりしたんです。それを見たら日本男児たるもの、放っておくわけにはいきません」

娼婦たちも中に入り、お客を取り合っていた。娼婦と言えば、メリーさんもその中にいたのだろうか?
「いや、あの人は中には入りませんでしたね。外にいました。プライドの高い人で、宝石店の前に立っていたりしました。あの人はたしか岡山から流れてきて、大阪、横須賀、そして横浜に来たんです」
 


伝説の人、メリーさんに関する話は貴重である(画像提供:森日出夫)


「メリーさんは、当時はまだそれほど化粧も濃くはありませんでした。年をとって目が悪くなり、感覚がわからなくなって、それで化粧も厚塗りになっていったんです(笑)」

こうした話は、当時を知る人からでなければ聞くことができない。
「酒はウイスキーがストレートで一杯30円でした。いまで言うと、500円くらいでしょうか。大卒の月給が8000円で、ラーメン一杯が30円でした」

安さも根岸家の魅力だったようである。



横浜が輝いていた時代



松葉氏の話にはよく愚連隊が登場する。愚連隊とはヤクザではなく、松葉氏によれば「不良の兄貴分」である。

「文字を見ても“愚か者が連なる”でしょ(笑)」
こうした若者が、当時の横浜を闊歩(かっぽ)していたのである。

松葉氏によれば、当時の横浜は序列がしっかり決まっていた。ヤクザ・テキ屋・愚連隊・町の不良。この順番で力があった。

「当時はいじめなんてありませんでした。ケンカをしても、決して命までとるようなことはせず、加減をしていました。今は相手が死ぬまでやってしまいますね」

根岸家が盛んだったのは1964(昭和39)年までだったと松葉氏はいう。ちょうど東京オリンピックの年、日本があらゆる面で飛躍を遂げつつあった時代である。

「横浜がよかったのは終戦直後から1964(昭和39)年までですよ。そのころは伊勢佐木町にも勢いがありました」
 


1946(昭和21)年頃の伊勢佐木町3丁目松喜屋付近 (画像提供:横浜市史資料室)


ナイトクラブ、キャバレー、カクテルバー──松葉氏の口からは夜の舞台の名前が次々に出る。あのころはいい時代でした、人が輝いていましたと懐かしむ。
「根岸家はね、日本の田舎の人たちは知らなくても、外国の人たちは知っていましたよ。日本に来たら必ず寄る店だったりしますから」

“不夜城”根岸家も時代には勝てず、1980(昭和55)年に経営不振により閉店。同年11月20日、火事により消失した。
一つの時代の終焉であった。
 


神奈川新聞1980(昭和55)年11月21日付け


しかし、根岸家は思いがけない血脈を残していた。