日吉に本社を構えるゲームメーカー「コーエーテクモゲームス」ってどんな会社!?
ココがキニナル!
日吉に本社を構えるゲームメーカー「コーエー」をぜひ取材して下さい!(jetstarさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
日吉の地で30年! 日本一、世界一、宇宙一を目指すゲーム会社。徹底的に遊んで、徹底的に楽しいものを作りながら世界に向けて“遊び”を発信する企業
ライター:細野 誠治
コーエーテクモゲームスの歩み
今年で創業36周年だというコーエーテクモゲームスは、1978年(昭和53年)に栃木県足利で誕生。この時の社名は「光栄マイコンシステム」。名前の由来は、光り栄える会社に、という願いが込められている。
元は染料販売の商社だったそうだ。ゲーム会社へ変わるきっかけは、社長の襟川(えりかわ)陽一氏に、現在会長を務めている婦人の恵子さんがコンピューターを誕生日にプレゼントしたことから。最初は「在庫管理ソフト」を作っていたのがプログラムで遊んでいるうち、ゲームを作るように。その第一作が『川中島の合戦』。
PCソフト第一作『川中島の合戦』当時のメディアはカセットテープ
そして1983年(昭和58年)3月30日、コーエーテクモゲームスの代名詞と言える名作『信長の野望』が誕生する。
初代の『信長の野望』。シミュレーションウォーゲームとある
『信長の野望』はプレイヤーが織田信長などの大名となり、国を強化し領土を広げ戦国時代の覇者になる・・・というテーマの作品。内政や外交、合戦といったコマンドを駆使して進める頭脳派のゲームだ。
歴史や歴史小説が好きだったと言う襟川氏。歴史シミュレーションとは謳いつつも「一国の城主となり、国を運営する」経営シミュレーションゲームという意味合いもあったそうだ。
最新作『信長の野望・創造』から。戦だけではなく、商才や外交も必要
当時はゲームの情報が大々的にアナウンスされない時代。それでも口コミで評判を呼び、じわりじわりと売れ続け気づけば超のつく大ヒットを記録。このヒットを受けて「ゲーム一本でやって行こう!」と決めたとか。
翌年の1984(昭和59)年に横浜市の日吉に移転。理由は襟川社長の出身校が慶應義塾大学だったり、襟川恵子氏のご実家があるなど日吉に縁が深かったからだそうだ。
移転を期に、社名を漢字の「光栄」にする。
現社長の襟川陽一氏。クリエイターの名前としては“シブサワ・コウ”
『信長の野望』から2年後、1985年(昭和60年)には『三國志』と『蒼き狼と白き牝鹿』を相次いで発売。
コーエーの“歴史三部作”と呼ばれるソフトがそろう。
『三國志』と『蒼き狼?』。コーエーを盤石とさせる3つの柱が完成
「『三國志』は『信長の野望』よりも、登場人物の人間ドラマに着目して作られたそうです」と桂氏。
わかります! 当時、小説の三国志は読んでないけどゲームで知ってるという同級生がいっぱいいました。
「アクションゲームなど反射神経を使うタイプではなく、大人が楽しめる“思考型”のゲームを作りたい」そんな襟川氏の思いは、熱狂を持って受け入れられた。
ヒットに恵まれ、1991年(平成3年)に株式を店頭公開。本社ビル(当時)を建設。
現本社ビルから歩いて2分ほど。かつての本社ビルは現在、第2ビルと呼ばれている
“あの壁画”のある建物は通称“ジェミニビル”と呼ばれている
1998(平成10)年、社名を「コーエー」に変更。
2004(平成16)年、転換期が訪れる。「歴史シミュレーションゲームのコーエー」という印象が強かったものが、ガラリと変わる。
『無双』シリーズの登場だ。
『戦国無双4』より。バリバリのアクションが登場
ゲームハードの能力が大幅にアップした時代。「シミュレーションのコーエーから脱却して、新しい柱となるゲームを創ろう!」という志のもと開発されたという。
新規ユーザーの獲得を目指しアクションゲームジャンルへの参入。
若い世代には、アクションのコーエーテクモって認知じゃないかな。
そして2009(平成21)年、更なる向上(宇宙一?)を目指し「株式会社テクモ」と経営統合。社名が現在の「コーエーテクモゲームス」になる。
早足だがコーエーテクモの歴史は、こんな感じ。