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世界を魅了した!? 本牧にあった享楽の場「チャブ屋」と伝説の娼婦「お六さん」の生涯をレポート!

ココがキニナル!

本牧特集にあった本牧チャブ屋の伝説の娼婦「お六さん」が気になります!チャブ屋の実態など横浜の闇の部分を調査願います。(sakuraさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

チャブ屋は本牧にあった売春宿だがダンスホール・バー・喫茶店などの側面も持っていた。お六さんは諸事情あり家族と別れ売れっ子のチャブ女になった

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ライター:松宮 史佳

関東大震災以後



1919~20(大正8~9)年ごろになると、警察当局は各地に散在していた「チャブ屋」を「一区域で営業させる」という方針を決定。本牧・原方面の「チャブ屋」は小港へ、関内埋立地方面の店は山手の大丸谷(だいまるや)に集めた。当時、小港には26軒、大丸谷は16軒の「チャブ屋」が集中。小港には約200人、大丸谷は100人ほどの「チャブ屋女」がいた。
 


大丸谷はJR石川町駅のすぐ近くにあった『赤線跡を歩く』(木村恥)
 

「客層は本牧と大丸谷により異なっていた」と長沢さん。「本牧は上級、大丸谷は下級船員が中心」だったようだ。また、客の国籍も違っており、小港は日本人もいたが「大丸谷は外国人専門」だった。
 


大丸谷の旧チャブ屋だった「オリエンタルホテル」(※中華街のものとは異なる)『タウン誌浜っ子(1988.February)』
 

昭和初期に撮影された「スターホテル」(中央)は高級な「チャブ屋」だった(『横浜中区史』」
 

とても貴重な「チャブ屋」の内部の写真(昭和初期)(『横浜中区史』」
 

店内にはホールやピアノ、カウンターの奥には洋酒がある。

このころの「チャブ屋」はかつての遊郭とは趣が異なり、“ダンスホール+バー+スナック+喫茶店”を合わせたような空間だった。そこに「私娼がいる」という場所だったらしい。本牧の「チャブ屋」に日本人が頻繁に出入りするようになったのは、1923(大正12)年に発生した「関東大震災以後」。各界の著名人も姿を見せていた。

関東大震災後、後に代表的な「チャブ屋」の1つとなる「キヨホテル」がオープン。なんと、乗馬クラブがあったというからすごい! その乗馬クラブには1932(昭和7)年に開催されたロサンゼルスオリンピックの馬術競技の金メダリスト「バロン西(西竹一)」も練習していたとか! 同ホテルは大繁盛し、「第一から第三まであった」ようだ。
 


奥に見える丘は「十二天岬」でかつてその向こうは海だった
 

写真に写っている丘の右隅に十二天社(現本牧神社)があり、その近くにチャブ屋があったそう。
 


「イトーヨーカドー」の建物がある脇辺りが「戦前のチャブ屋の中心地だった(by長沢さん)」
 

本牧の「チャブ屋」はモダンで洗練された場所だった。窓にはステンドグラスが施され、室内には「色とりどりの電球が飾られていた」とのこと。客として宿泊した翌朝には「トーストとハムエッグ、コーヒが出た」らしい。 
  


震災から戦災までの本牧・小港チャブ屋街の地図(提供:大谷卓雄)
 

戦争の影が色濃くなった1937(昭和12)年ごろには「チャブ屋」から次第に客足が遠のきつつあった。だが、1941(昭和16)年ごろまでは細々と営業を続けていたようだ。

敗戦後、本牧の「チャブ屋」があった小港周辺はアメリカ占領軍により接収。「米軍海浜住宅一号地」に。小港町三丁目と本牧町二丁目辺りに「慰安所」が設置された。
  


戦後「チャブ屋」の中心地になった小港3丁目付近(後ろ姿は松宮と長沢さん)
   

最盛期には42軒ものホテルが営業し、600人ほどの日本人女性が働いていたとのこと。だが、1950(昭和25)年には下降線をたどり、1958(昭和33)年に「売春防止法」が完全施行され、「チャブ屋」の灯は消えた。
 


チャブ屋女ってどんな人だったの!?



外国人遊歩道が設置された当時(1865<慶応元>年)から明治初期(1870年代)ごろまでは日本のしきたりや慣習などに興味を抱き、好む外国人が多かった。そのため、チャブ屋女は「知性や品性を備えていた」らしい。

1882(明治15)年以降、「チャブ屋」が全盛期になり、房総や相模地方出身者が増加。公先を転々としてきたような世渡りがうまく、したたかな女が多くなった。時代にもよるが、「チャブ屋女の年齢層は30歳前後が多かった」とのこと。『横浜チャブ屋物語』によると、経験豊富でたくましい女性でないと「外国人の相手はつとまらなかったから」というのが理由らしい。
  


1931(昭和6)年に撮影された華やかな装いのチャブ屋女(『横浜ガイド創刊号』横浜開港資料館)
 

収入の取り分は大体「店が6でチャブ屋女は4」。チャブ屋女は4割の収入から前借や部屋代、食費を払わなくてはならなかった。遊郭の女性が借金を負うことはなく、伊勢佐木町や銀座に出かけていたようだ。

遊郭には売られてくる女性が多かった。しかし、チャブ屋女は良家の子女も多く、「自らの意思で働いていた人が大半だった」ようだ。洋装や和服、断髪など、さまざまな女性がいた。しかし、「客に酒をねだる」ということはなく、上品で英語を話し、ダンスを嗜(たしな)んだという。