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横浜が生んだ喜劇俳優ムロツヨシさんを徹底解剖!

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横浜が生んだ喜劇俳優ムロツヨシさんを徹底解剖!

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ライター:永田 ミナミ

ムロツヨシと横浜(つづき)
 
─役者を目指そうと思ったのは何がきっかけだったんですか?

 
高校時代はたっぷり遊びましたけど、年度が変わる4月1日からは毎日ひたすら勉強することを決めていました。本気で勉強したら、浪人生活の1年間で自分がどこまでいけるか挑戦してみようと思ったんです。

それで横浜駅の河合塾で1年間、数学を中心に勉強して東京理科大学に入学できたんですけど、入学後に知り合った同級生2人が、2人とも大学でやりたいことや将来の目標を持っていて。そういう彼らが本当に格好よく見えたのと同時に、自分がすごくちっぽけに思えたんです。僕は「ただどこまで成績が上がるか」しか考えてなかったので。
 


ここからムロツヨシさんの人生は劇的に展開するのである

 
そこから急に「自分がやりたいことは何か」について考え始めて、1ヶ月後、ある舞台を観に行ったんです。そうしたらその舞台で主演をされていた段田安則さんの芝居が素晴らしくて、幕が降りたときにはもう「あっち側に、舞台に立つ側に行く」って決めていたんですよね。今考えてみても、何でそんなふうに決断できたのか分からないんですけど「これしかない」と思いました。それで、それならもう自分は大学にいる意味はない、ということで辞めたのが19歳です。


─とても大きな決断ですよね。それ以前に、役者になりたいと思ったことはあったんですか?

それはなかったですね。テレビは好きでしたし映画やドラマも好きでしたけど、人並み程度だったと思います。さっきも言ったようにうちは「変化型」の家族だったので、テレビが救いというところはありましたけど「テレビに出たい」とは思っていませんでした。だから、19歳で役者になりたいと思ったあのとき、何で「大学を辞めよう」とまで思えたのかは分からないですね。自分でも謎です。

─19歳でその決断はすごいことだと思います。

自分でも謎ですけど、今はその決断をしてくれた19歳の自分に感謝していますね。大学を辞めたことで、後には引けないところまで自分を追い込んでくれたと思うので。

─ムロツヨシさんにとって横浜はどんな街ですか?

僕の友達はほとんど横浜を出ていないですからね。好きな街だし、大切な街です。横浜は居心地がいいですよね。横浜駅で何でもそろうし、東横線に乗ってしまえば渋谷まで1本で出られる便利さもあるし。

横浜駅西口は、23歳のときに初めて一人芝居を制作から全部自分でやった場所でもあるんです。その舞台で借りた劇場が相鉄ムービルにあった相鉄本多劇場だったんですよ。だから相鉄ムービルの建物を見るとそのときのことを思い出しますね。
 


かつて相鉄ムービル3階にあった相鉄本多劇場は、2014(平成26)年4月14日に閉館した


今年、相鉄ムービルのすぐ隣のビルの屋上で撮影をしたんです。あのころ何もなかった自分が17、18年たって、映画の撮影で同じ場所に来ることができたのは嬉しかったですね。

あ、あと横浜の思い出の場所といえば、小学校のときに、それも友達が連れていってくれたんですけど、横浜市中央卸売市場の屋上です。そこからの夜景が僕はいちばんきれいだと思っています。今はもう一般の人は入れなくなってるかもしれないですけど、そのころは入れて、僕らは自転車を下に置いて階段で屋上まで行って夜景を見てました。
 


確認したところ、やはり現在は施設内は関係者以外立入禁止だった
 

現在は施錠されているというこの屋上からムロツヨシ少年は夜景を眺めていたのだ


それから10年くらいたって、僕が役者を目指すことにして最初に選んだアルバイトが、横浜市中央卸売市場だったんですよ。今度はきれいな夜景を見るんじゃなくてマグロを運ぶんです。だから印象がこう、180度変わりましたね。それまできれいだと思っていた景色が、つらいバイト先の景色に変わっていくんですよ。意味が変わってくるっていう。
 


「もちろんきれいなんですけど、嫌でも毎日見る景色になりました(笑)」


浪人時代は河合塾のあと、だいたい野毛の坂を上った横浜市中央図書館か神奈川図書館の2つを行ったり来たりしていたので、そこも1年間ですけど思い出の濃い場所なんです。そこも横浜市中央卸売市場でアルバイトをしたら、横浜市中央図書館に上る坂が配達ルートになりました(笑)

夜景スポットが職場になったり受験勉強した場所が配達ルートになったり、いろいろ人生変わりますね。同じ道でもそのときどきで全然違う場所になって。

─坂といえば、はまれぽでもう4年くらい横浜でいちばん急な坂を探してるんですけど、ムロツヨシさんにとっていちばん急な坂ってどこですか?

そうだなあ、僕が今まででいちばん急だなと思ったのは、僕が住んでいた三枚町の坂ですかね。実際はどこなんですか?

─今のところ瀬谷区なんですが、神奈川区は急坂の数が多いので、まだ眠れる急坂がある可能性が高いと思っていて。もう少し詳しく場所を聞いてもいいですか?

三枚町の上のほうに神社があって、そこがすごい坂なんです。下から上っていくと切り立った崖があって、そこで曲がってまた上っていったところにうちがあったからその2つの坂が難関で。もうずいぶん行ってないので今はどうなってるか分からないですけど、当時は崖のところに柵もなくて、自転車で下っていてもしブレーキの線が切れたらそのまま落ちていくような恐怖の坂でした。今はどうかなあ、もう柵できてるかな。(検索して)ここかなあ、神明社。こんな名前だったかな。
 


「(画像を見て)ああ、景色が変わってるなあ。でもその坂はかなり急でした」
 

というわけで三枚町へ。崖は現在階段になっている模様
 

階段の上は14°で、問答無用でAランクの急坂だった
 

逆の上から。黄色いポールはあるもののブレーキが切れたら確かに恐怖である
 

横から眺めるとこんな感じで
 

階段手前を左折した下の坂も11°となかなかの急坂だった


三枚町の神社の名前ははっきり覚えてないですけど、片倉から神大寺を過ぎて六角橋の間にある杉山神社ではないです。その杉山神社はわたくしのファーストキスの場所なので。14歳で中学3年のときですね。杉山神社の境内の下のところです。

前にオダギリジョーさんと加瀬亮さんの映画『スクラップ・ヘブン』を瑛太君と観に行ったんですけど、あの映画は六角橋あたりが舞台になっていて「あ、六角橋出てきた」って思っていたら、そのファーストキスの神社が出てきたんです。思わず「あっ!」ってなって瑛太のほう見たんですけど、瑛太はそんなこと知らないですから「何もう、うるさいなあ、はしゃがないでくださいよ」みたいなことを言われました(笑)。ファーストキスの場所が映画に出てきらすごく嬉しいですよ。
 


そしてここがその甘酸っぱい思い出の杉山神社であり
 

境内の下のところというのはこのへんでしょうか


─人生のいろいろなことが横浜ではじまっていますね。

そうそう、本当にそうです。もう大袈裟でも何でもなく、横浜しか居場所がなかったですから。高校1年生くらいになると「渋カジ」とか「紺ブレ」なんかが流行って、みんなで東横線に乗って渋谷に服を買いに行くようになりましたけど、それも今考えると「横浜駅で全部事足りただろう」って思います(笑)。まあ、あのころは「渋谷に行ってる自分たち」っていうのが重要だったんでしょうね。
 
─横浜には何歳くらいまで暮らしていたんですか?

横浜市には22歳くらいまでですね。そのあとは元住吉に引っ越すので川崎市になります。19歳で役者を目指してから、一人暮らしのお金を貯める期間が2年ほどあって引っ越したんです。当時は横浜にいる友達しか遊び相手がいなかったので、養成所があった東京との中間で、東横線で両方行ける元住吉にしました。

元住吉には6年ほど住むんですけど、29歳のときに、先輩であるユースケ・サンタマリアさんから「君はもうアルバイトをやめなさい」って言われまして。そのときもアルバイトばかりしていたんですけど「もう本業一本でやっていくようにしなさい。今はまだギャラが少ないかもしれないけど、一本立ちしたほうがいい」って。それでそれを機にまずアルバイトをやめました。

そうしたらそのときにちょうどお世話になっていた人が「東京においでよ。元住吉も東京から1本だけど、覚悟を決めて東京に来てみたら? 電車でたった30分だけど、ちょっと意味が違ってくるんじゃないか」って言ってくれたんです。それで東京に出ました。
 


「いろんな先輩に背中を押してもらって、東京に出たのが30歳ですね」


─東京に住んでみて、実際にそれまでと変化はありましたか?

変わりましたね。元住吉からはすぐだった横浜は少し遠いところになったし、アルバイトをしないで東京で役者をやるという覚悟を持って出てきているので。役者を目指したころは養成所があって「来る場所」だった東京が、今度はもう俳優を職業として「いる場所」になったわけです。でもまあ、飲んでばかりいましたけどね(笑)。飲みながら友達をつくって、いろいろな人を紹介してもらって「どうか僕を使ってください」って言う日々でした。

─今振り返ってみて、横浜で生まれ育ってよかったと思うことはありますか?

僕にとって横浜でできた友達は一生続く友達なので、それはとても大切な財産ですね。横浜は繁華街もあれば観光地もあって、どちらにもすぐに足を伸ばすことができるのはすごく恵まれていたと思います。新幹線の駅もあるし、でも新幹線の駅から少し離れれば今でも田畑が広がっていて。

横浜育ちって言うと「都会育ちだね」って言われたりしますけど、僕らが子どものときはもう畑ばっかりで、畑のど真ん中を肥料の臭いを嗅ぎながら小学校に通っていましたから。
 


「あと、僕にとっては六角橋商店街が大きかったですね」


六角橋商店街のあのアーケードというか小さな入口をくぐったなかの独特な雰囲気が好きでした。そういういろいろな景色があったから、高校を卒業するまで横浜に飽きることもなかったし「この街にないものは」と考えることもなかった。それから10年くらいたって東京に住んで横浜と行き来するようになったら、もちろん東京のほうが人は集まってはいるけど、実際ほとんど差はないですよね。