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関東大震災、横浜大空襲を乗り越えた「大口通商店街」の歴史とは?

関東大震災、横浜大空襲を乗り越えた「大口通商店街」の歴史とは?

ココがキニナル!

大口通商店街は横浜駅周辺が開発されるまでは最大の商店街で、当時は「大口銀座」と呼ばれるほど賑わっていた。関東大震災、空襲でも焼け残ったという大口通商店街の歴史を取材してみませんか。(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

横浜有数の大口通商店街は、明治末期・大正時代には既に店が並んでいた。昭和・平成時代を「良い品を安く親切に消費者へ」をモットーに発展し、令和のいま、地域との“共創”による街づくりを展開している。

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ライター:池田 恵美子

戦後の復興に逸早く取り組んだ大口通商店街


 
日本は1941(昭和16)年12月、太平洋戦争に突入する。
前述の「設立ノ趣意竝ニ経過」から当時の様子を記す。

戦争末期には、都市への空襲被害を軽減するために都会から田舎への疎開が行われたが、大口通商店街(片側)の強制疎開が実施されたのは1945(昭和20)年3月である。
同年5月25日午前9時23分、攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃した横浜大空襲は、激烈な被害をもたらし阿鼻叫喚を極めた。が、大口通商店街の一角は奇跡的に空襲を免れた(空襲の証言については後述)。
 


猛火に包まれた市街(提供:横浜市史資料室)

 
茫然自失の地域住民にあって、大口通商店街を奮起したのは、市議会議員の湯本一郎(ゆもと・いちろう)だった。同議員は、商店街の青年店主らを励まし、三輪一雄(みわ・かずお)、外山友一郎(とやま・ゆういちろう)が中心になって同志8名が発起人となり再建を図っていくことになった。
再建の信条に掲げたのが、官公庁に依存することなく自力で新商店街を建設すること。「良い品を安く親切に消費者へ」をモットーに、終戦から4ヶ月後の1945年12月10日に、店舗の建築に着工した。
こうして46日後の1946(昭和21)年1月25日に、新・大口通商店街は完成の時を迎えたのである。
店舗数は新旧合わせて147(内12が準備中)、大口通商店街は復興の一歩を踏み出した。
 


1946(昭和21)年の大口通商店街の見取り図 ※クリックして拡大

 
客層は、横浜市内はもとより川崎、鎌倉からも足を運んだ。商店街は市民生活の必需品を網羅し販売し、活況を呈した。
この文書の末尾は、「消費者ニ多大ノ便ヲ与エツツアルノ状況ナリ」と結ばれている。
大口通商店街振興協会の戦後復興に懸ける並々ならぬ信念が伝わってきて余りある。商店街を行き交う人々の賑わいぶりが目に浮かぶようだ。
 


昭和20年代前半の大口通商店街(提供:大口通商店街協同組合)

 
 
 

生き証人が語る大口通商店街


 
この資料に復興に尽力した中心的人物として記されているのが、当時の常務理事を務めた外山友一郎さん。1946年の見取図にある「金物商外山商店」を、1980(昭和55)年頃まで営んでいたという。その息子の外山敏郎(とやま・としろう)さんは現在89歳、サラリーマンとして73歳まで働いた。現在も商店街の近くに住み、大口通商店街を見つめてきた。敏郎さんは、病を押して記憶を辿るように話し始めた。
 


外山敏郎さん。父の友一郎さんは「金物商外山商店」を営み商店街復興に尽力したお一人

 
「戦争末期、15歳の私は子安にあった工場の食事係で握り飯を運びました。空襲でやられるから大事な家財を山(丘陵)で保管するように言われ運びました。ところが、丘陵のほうが横浜大空襲で被害を受け、商店街のほうは空襲を免れたんです。丘陵に運んだ貴重な品は燃えてしまいました。戦前の横浜の中心は伊勢佐木町でしたが、空襲で全滅しましたので、そこの人達がこちらに来て商売を始めました。そして、戦後しばらくすると、神奈川区内の六角橋商店街などほかの商店街も徐々に復興していったので、大口に来なくとも地元で買い物ができるようになり、大口通商店街は段々寂しくなっていきました」

前述の大口通商店街振興協会の資料にも横浜大空襲からの「残存店舗」と記されており、外山さんの証言にもあるように、大口通商店街の一角が、横浜大空襲を免れたのは確かだ。
 
 
 

昭和天皇の全国初の巡幸地


 
横浜大空襲から目覚ましい復興を遂げた大口通商店街は、昭和天皇の全国最初の巡幸地に選ばれた。1946(昭和21)年2月19日のことである。
 


1946年2月、昭和天皇が商店街を巡幸。車は国道1号から入り進んで行った(提供:大口通商店街協同組合)
 

復興間もない昭和20代前半の商店街(提供:大口通商店街協同組合)

 
 
 

大口通商店街協同組合の設立


 
大口通商店街振興商協会は商店街の建築が完成した1946(昭和21)年に、名称を大口通振興商業組合に変更し、3年後の1949(昭和24)年11月、同組合を発展的解消し、現在の大口通商店街協同組合を設立した(組合員数は97名)。

この年には、横浜市により西側(国道1号から見て左側)の道路幅が拡張され今日の姿になった。
昭和30~40年代の商店街は、店に商品を並べれば、次々に売れる時代だった。
 


1955(昭和30)年に完成したネオンアーチ(提供:大口通商店街協同組合)

 
その繁栄ぶりは、昭和40年頃に、横浜駅西口の相鉄ビル屋上(現在のベイシェラトンホテル)の電光掲示板に大口通商店街歳末福引セールの広告が掲げられたことからもうかがえる。

 

当時の相鉄ビル屋上の電光掲示板に大口通商店街歳末福引きセールの広告(提供:大口通商店街協同組合)

 
1971(昭和46)年に2代目アーチが出来上がり、商店街25周年パレードが華々しく行われた。アーチは、1984(昭和59)年までの13年間、設置された。

 

1971(昭和46)年に完成した2代目アーチ、13年間設置された(提供:大口通商店街協同組合)

 
渡邉理事長は、「当時の歳末セールの1週間は、横浜線・京急線沿線の地域から大勢の客が押し寄せ、人並みで歩道が見えない程賑わいました」と話す。
年末の風物詩、上野のアメ横を思わせる状況が続いた。
 


1971(昭和46)年、25周年記念に湧く商店街(提供:大口通商店街協同組合)