検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

中区曙町に風俗店が多いのはなぜ?

ココがキニナル!

中区の曙町。風俗店がやたら多いのはなぜ?(KZさん、クリスさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

近隣にあった遊郭の影響を受けて戦前から私娼が立ち、待合や芸妓置屋があったから。1993年以降は法の穴をすり抜けてヘルスが乱立した。

  • LINE
  • はてな

ライター:松宮 史佳

戦前の曙町



「横浜中区史」によると、伊勢佐木町を中心とした地域の特徴が出てきたのは1935(昭和10)年頃。曙町は近隣にある遊郭の影響を色濃く受け、大岡川沿いにはバー、妓と遊んだり一夜を過ごす待合、飲食店、芸妓置屋(今でいう芸妓の所属事務所)などが多くあった。
“娼妓は身を売り、芸妓は芸を売る”と区別されていたが、実際は身を売る芸妓も多かったようだ。
 


「中区わが町-中区地区沿革外史」P18 カフェ(現在のクラブ)や飲食店が並ぶ戦前の曙町


戦前の曙町について知るために、「横浜駅自由通路前にある赤い靴の女の子」の取材でお世話になった「赤い靴記念文化事業団」代表松永春さんにお話を伺った。
 


取材をOKしてくださったダンディーな松永さん


1944(昭和19)年、1929(昭和4)年生まれの松永さんは旧制中学に通う15歳。曙町には市電が走っていたそうだ。雨が降ってきたので店の軒先で雨宿りをして電車を待っていると、柔道部の先輩が通りかかり、「こんな所にいるもんじゃない!」と大激怒!

先輩に何度も投げ飛ばされて「体が痛かった(by松永さん)」という事件があったらしい・・・。当時の曙町が偲ばれるエピソードだ。

「横浜中区史」によると、盛り場には私娼(営業許可を得てない娼婦)が出没し、夕暮れ時になると客の袖を引くという光景が見られたそうだ。盛り場に沿ったこの界隈の裏通り(現在の鎌倉街道に併走する裏通り)は“放蕩の限りを尽くして親の死に目に会えなかった人がいたため「親不孝通り」と地元以外の人から呼ばれるようになったようだ。
 


ヘルスが並ぶ現在の「親不孝通り」




戦後の性風俗史



白川充著「昭和平成ニッポン性風俗史」によると、日本では戦時中に戦場へ慰安婦を連れて行っていたので、“進駐軍にも性的処理が必要”と政府は考えていた。

そこで国策であることを隠し、1945(昭和20)年8月、民間に進駐軍向けの特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)を設置することを命令
娼婦を集めようとしたが集まらず、仕事内容をふせて一般女性から慰安婦を公募すると1,500人を超える応募が殺到。仕事の内容を知らされて去る者も多かったが、戦争未亡人や経済力を持たない者が慰安婦として就業した。

だが、進駐軍の間に性病が蔓延し、1946(昭和21)年1月にRAAはわずか半年ほどで閉鎖。GHQは日本における「公娼制度」廃止を示唆し、同年2月には娼妓取締規則が廃止された。

すると、行き場を失った慰安婦が街娼となり急増。街娼を管理するため、同年11月“特定区域の特殊飲食店で警察の監視下のもと売春行為を許可する”「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」が発令。

警察は特殊飲食店を地図上で赤く囲って管理していたため、その地域は“赤線”(無認可は青線)と呼ばれた。赤線とは半ば国公認で売春が行われていた地域の通称。ちなみにこの頃の曙町は「赤線地帯だった(松永さん)」そうだ。
 


しかし、1958年(昭和33年)売春防止法により赤線が廃止