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今はなき多摩川の渡し船、「丸子の渡し」の当時の様子とは?

ココがキニナル!

多摩川に架かる丸子橋が開通するまでは、中原街道の東京都側と神奈川県側は、「丸子の渡し」と呼ばれる渡し舟で行き来していたそうです。栄えていたころの、「丸子の渡し」の様子を知りたいです。(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

丸子の渡しが活躍していたのは中世から1934(昭和9)年12月まで。自動車の普及により待望の丸子橋が架橋されたことで廃止された。

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ライター:岡田 幸子

多摩川下流にかかる「丸子橋」。東京都と神奈川県をつなぐ中原街道が通る橋として、今では確たる存在だ。ところが、この橋が架けられたのは昭和初期。それまでは「丸子(まるこ・古くは“まりこ”とも)の渡し」と呼ばれる渡し船が活躍していたという。

 

 現在の多摩川と「丸子橋」付近(東京都大田区側より撮影)
 

 高層ビル群が建ち並ぶ川崎側を望む。ここに渡し船!?

 
昭和初期ならば、写真などの記録も残っているはず。多摩川の渡し船がどんな様子だったのか、見たい! 知りたい! キニナルその歴史と当時の様子などを追ってみた。


 

多摩川には数多くの「渡し」があった


 
「丸子の渡し」があったのは、現在の東京都大田区田園調布本町と神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町を結ぶあたり。東京側に下沼部(しもぬまべ)村、神奈川側に上丸子村があり、元禄年間(1688〜1704)にそれまで上丸子村が運営していた渡しの渡船権を二子村の大貫市郎兵衛が買い取って個人での運営を開始したと『取替申議証文之事(1765<明和2>年 安藤家所蔵 川崎市民ミュージアム寄託)』にある。

その後、渡船権をめぐるいざこざを経て、1765(明和2)年より、上丸子村、下沼部村と大貫市郎兵衛の三者で共同運営することとなったようだ。

 

 このあたり(Googleマップより)

 
『大田区史 下巻』(大田区史編纂委員会 1996<平成8)>)によると、「丸子の渡し」は二つの村と大貫重太郎(おおぬき・じゅうたろう)の三者によって運営されていたとあるので、その後は代々当地の大地主であった大貫家と二つの村に渡船権があったのだろう。

ちなみに、この大貫家は、かの岡本太郎の生みの母・岡本かの子の実家でもあるという。

多摩川には「丸子の渡し」に限らず多くの渡し船が運行していた。徳川幕府直轄であった「六郷の渡し」をはじめ、「登戸の渡し」、「二子の渡し」、「平間の渡し」など、多数の渡し船があったという。NPO法人「多摩川エコミュージアム」の調査では、多摩川には合計で45ヶ所の渡し場跡が確認された。

 

 中央「上丸子村」から対岸に船が出ている(「調布玉川絵図」大田区立郷土博物館所蔵)

 
「“丸子”という地名は中世の紀行文にも登場しており、そのころからこのあたりには渡し船が行き来していた可能性が高いといわれています」とは、大田区立郷土博物館の学芸員・眞坂(まさか)オリエさん。

 

 「丸子橋竣工まで、長い間人々の足として運行されていました」と眞坂さん

 
丸子の渡しでは乗客を運ぶことはもちろん、古くは牛、馬、荷車や人力車なども運搬。東京(江戸)から肥料となる糞尿を運び、川崎からは梨や桃、野菜などが東京(江戸)の市場に運ばれたという。時代が移ってからは自動車の運搬も行われ、『大田区史 下巻』掲載のデータでは、1927(昭和2)年度に54台だった自動車の運搬実績が、1931(昭和6)年度には1273台に急増しているのが分かる。

 

 1908(明治41)年に撮影された「丸子の渡船」『大田区の文化財第19集』より転載

 
「昭和に入って自動車の普及が進むにつれ、増水すると渡し止めになってしまう不安定な渡し船ではなく、自動車でも安定的に川を渡ることのできる道路への要望が高まりました。そうした要望を受けて、1931(昭和6)年に丸子橋の架橋が決定し、翌1932(昭和7)年に着工、1935(昭和10)年5月の開通となったのです」

 

 1921(大正10)年ごろ、渡し船を待つ荷車(小池汪<こいけ・おう>氏提供)

  
丸子橋の架橋運動はおもに川崎市の人々により、1884(明治17)年以降たびたび請願されたようだ。1901(明治34)年の第二次請願、1920(大正9)年の第三次請願を受け、ようやく国庫の半額負担による架橋が決定。残りの半額は東京府(当時)と神奈川県の負担とされ、神奈川県知事は中原街道沿いの近隣町村から寄付金を募って負担したという。

 

 初代「丸子橋」の親柱が大田区側の橋のたもとに残されている
 

 「昭和九年拾貮月成」とあり、1934年末の竣工と分かる

  
50年以上に渡る運動により、ようやくかなった架橋に、人々はさぞかし沸いたことだろう。特に、中原町は架橋費用のために当時としては破格の4万5000円(現代に換算すると約1億5000万円)を寄付金として捻出したとあり、橋への期待が伺える。

こうして、待望の丸子橋誕生により、「丸子の渡し」は1934(昭和9)年12月に、ひっそりとその役目を終えたのだ。

 

 2000(平成12)年に2代目丸子橋へと架け替えが進み、現在の姿に



 

丸子の渡し、渡河(とか)の現場を訪ねる


 
今となってはビルも建ち並び、近代的な風景となった丸子橋付近だが、当時の渡しは、どのような様子だったのだろう?

 

 付近ではアユ漁も盛んだったようだ。背後に白い帆を張った砂利船が見える(大田区立郷土博物館所蔵)

 
『大田区史 下巻』によると1932(昭和7)年ごろの渡し船は、長さ7間2分(約13メートル)、幅9尺(約2.7メートル)が二艘。船頭が前後に立ったという。平常水位より1.5メートル以上増水すると渡船中止となったが、大型の船が出せない時には荷車などを対岸に置いたまま、ひとまわり小さい船で人のみが渡ってくるというケースもあったという。

 

 底の浅いシンプルな船が主流だったようだ(大田区立郷土博物館所蔵)

 
当時の渡賃は人・犬が2銭(約200円)、牛・馬や荷車が5銭(約500円)に対し、自動車は30銭(約3000円)。こうした都度払いだけでなく、年間を通じての渡船契約という形もあったと川崎市立中原図書館『たちばな』32号にある。

 

 1984(昭和59)年ごろ、一時的に復活した丸子の渡し(大田区立郷土博物館)


多摩川を舞台に体験学習や環境学習の機会を提供しているNPO法人「とどろき水辺の楽校」の鈴木眞智子(すずき・まちこ)さんは「子ども時代に渡しを利用していたという方からお話を聞いたことがありますが、病気の際などには船を使って対岸のお医者さまを訪ねたりしたそうです」と話してくださった。物流で産業を支えただけでなく、生活に密着した住民の足でもあったのだ。

 

 北海道石狩市出身の鈴木さん。幼少時に石狩川の渡し船に乗ったことがあるとか

 
当時の面影を探して、渡し跡を歩いてみた。

まずは右岸、東急東横線「新丸子」駅から5分ほど歩いて、川崎側の河川敷を目指す。

 

 「丸子第一グランド」として整備された河川敷の一角に・・・
 

 「丸子の渡し」記念碑を発見!
  

 上掲(じょうけい)した小池汪氏撮影の写真とともに解説がある

 
続いて大田区田園調布側の左岸を目指し、橋を渡ろう。昭和の初等教育を受けたため、多摩川というと社会科の教科書に掲載されていた「生活排水で泡立ったアレ」を漠然と思い浮かべながらきたのだが、橋から見下ろす多摩川は驚くほどに澄んだ水を湛え、静かに流れていた。

 

 水鳥の憩う姿も。川は蘇りつつあるのだなぁ