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寿町ってそもそもなんでドヤ街が形成されたんでしょう?(紀州の哲ちゃんさんのキニナル)
1955年米軍の接収が解除され、1957年に職業安定所と寄せ場(日雇労働者に仕事を斡旋する場所)が移転してきてから寿町がドヤ街として発展しました。
ライター:吉田 忍 (2011年12月01日)
ドヤ街とは?
主に日雇労働者向けの簡易宿泊所をドヤと呼び、そのような簡易宿泊所が立ち並ぶ街がドヤ街といわれるようになった。ドヤは宿の逆さ言葉で、とても普通の宿と呼べるようなところではないという意味を含ませて作られた呼び名。
簡易宿泊所が並ぶ横浜市中区寿町
ドアの間隔が部屋の狭さを物語っている
古めの簡易宿泊所の宿泊料金
また、ドヤ街は日雇い労働者を集める手配師が毎朝やって来たことから、寄せ場とも呼ばれる。
寿町は、東京の山谷、大阪のあいりん地区とならぶ三大ドヤ街。
寿町を中心とし、扇町や松影町を含む地域を含めて寿町ドヤ街と呼ばれる。
ビジネスホテル並の簡易宿泊所。宿泊料金は少し高いがそれでも2,200円
新しく建設された簡易宿泊所も多いが、仕切りから部屋が狭いのが伺える
寿町ドヤ街形成の経緯
1950年代、農業の機械化が進み農村では人手が余るようになり、特に農家の次男、三男は都市に移り住み始めた。またこの頃は石炭から石油へとエネルギー転換の時期。職を失った炭鉱労働者なども仕事を求めて都市に流入してきた。
当時、朝鮮戦争による軍需輸送の基地となった横浜港は、荷役労働を中心に港湾労働者の需要が多く、日本中から大勢の労働者が横浜に集まっていた。
当時は野毛に日雇い労働を紹介する職業安定所があって、野毛周辺に簡易宿泊所があり、大岡川には船を改造した水上ホテルのようなものもあった。
一方、寿町周辺は1945(昭和20)年から1955(昭和30)年まで米軍に接収されていた。
接収解除後、1957(昭和32)年に職業安定所の寿町移転と共に、寄せ場も移動し、簡易宿泊所が多く建設され、寿町はドヤ街を形成していくこととなる。
寿町総合労働福祉会館(職業安定所)
横浜港での荷役を中心とした労働力需要は大きく、100軒以上の簡易宿泊所が建設され、大変な賑わいを呈するようになる。
普通の民家や会社なども混在している
この地区には普通の保育園もある
最盛期の夜には、立ち飲み酒場のカウンターを二重三重に客が取り囲んでいたという。
ドヤ街は、日本の高度成長期を安価な労働力で支えた場所でもあったのだ。
当時は賑やかであったであろう街角