【横浜の名建築】西谷浄水場
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第27回は、赤煉瓦と白い大谷石、青銅の屋根の洗練された大正時代の建物が残る西谷浄水場。遥か未来を考えた横浜近代水道の歴史がそこに残っていた。
ライター:吉澤 由美子
日本の近代水度発祥の地、横浜。水道事業は明治時代にスタートし、大正、昭和、平成と人口の増加に合わせてその規模を拡大してきた。
西谷浄水場の敷地にある登録文化財のプレート
西谷浄水場は、1915(大正4)年創設。そこに残っているのが、水道施設の遺構。洗練された美しい煉瓦造の上屋(うわや)で、国の登録文化財として指定されている。
浄水場の中心に庭園風の場所があり、そこに水道施設の遺構がある
今から100年近く前に作られた西谷浄水場には、明治時代に長期的な視野に立ち、現在にも引き継がれた素晴らしいビジョンが隠されていた。
案内してくださったのは、横浜市水道局浄水部西谷浄水場の運営係長、水石義一さん。
浄水場について詳しく説明くださった水石さん
100年先、200年先のビジョン 明治時代の横浜近代水道
横浜が開港して都市として急激な発展を続ける中、水は常に悩みの種で、水を木樋(もくひ)で送る水道は水漏れや塩分などの問題点を抱えていた。さらに全国的なコレラの蔓延もあって、神奈川県は横浜に近代水道導入を決意。
水道について詳しく展示している横浜水道記念館が浄水場の隣にある
調査を任されたヘンリー・スペンサー・パーマーは、中国の香港や広東で水道事業を成功させていた人物。パーマーは3ヶ月で調査と分析を終了し、1884(明治17)年末に水道工事を任される。翌年には母国であるイギリスから機械や材料を取り寄せ、水源を相模川と道志川が合流する三井に決め、そこから野毛山の浄水場まで44kmの導水路線(水道みち)を設け、1887(明治20)年に日本初となる横浜の近代水道が誕生する。
近代水道誕生記念の噴水。当初は桜木町駅前にあった。現在は水道記念館にある
計画の際、距離が近い多摩川も当然候補となった。しかし、多摩川からではどうしてもポンプで水を上げなければならない。しかし高低差を利用して自然に水を流すことが可能な三井であれば、距離は長くとも長期的なコストは圧縮できる。
水源から来た水が入ってくる着水井(ちゃくすいせい)
1897(明治30)年には、山梨県南都留郡山伏峠に源流がある道志川も横浜水道の水源に加わる。
浮遊物を取り除く沈澱池(ちんでんち)。大きな羽が中で回っている
掃除中で水が抜かれていた沈澱池。丸い穴から水が移動していく
1916(大正5)年、横浜市は山梨県から道志水源林を買い取る。横浜市金沢区と同じ位の面積を持つ林だ。買い取った理由は、その水源林の整備を行って、安全な水を安定的に供給できるようにするため。大正時代にこれほど未来を見通していたことに驚く。
水面より少し下にあるきれいな水だけを集めて次の行程へ送り出す
横浜の近代水道は、いち速く導入しただけでなく、明治・大正時代に長期的な視野に立って計画、実行されてきたものだった。
下にある砂、砂利、石の層を通して微細な浮遊物を取り去る濾過池(ろかち)
掃除中の濾過池。水と砂の層が取り除かれ、下に砂利と石が見える