中区曙町に風俗店が多いのはなぜ?
ココがキニナル!
中区の曙町。風俗店がやたら多いのはなぜ?(KZさん、クリスさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
近隣にあった遊郭の影響を受けて戦前から私娼が立ち、待合や芸妓置屋があったから。1993年以降は法の穴をすり抜けてヘルスが乱立した。
ライター:松宮 史佳
関東最大のファッションヘルス(以下ヘルス)街といえば横浜市中区曙町。ちなみにヘルスとは女性従業員が男性客に対して“個室で本番行為以外の性的サービスを行う”店のこと。
当初、軽い気持ちで曙町の取材を始めた松宮。だが、そこにはものすごい深い歴史があった!
横浜における遊郭の歴史
下川 耿史・林宏樹著「遊郭をみる」によると、1859(安政6)年アメリカ領事ハリスが開港の条件の1つとして遊郭開設を要求し、現在の横浜スタジアムのある場所に港崎(みよざき)遊郭(約1万5千坪)が開設された。港崎遊郭には15軒の遊女屋があり、331人の遊女がいたそうだ。
横浜スタジアムのある場所に港崎遊郭はあった
横浜公園には当時最も繁盛していた遊女屋「岩亀楼(がんきろう)」の石籠が
1866(慶応2)年、港崎遊郭は豚肉料理屋から出火した豚屋火事により焼失
その当時、各国と「火災が発生した場所には遊郭を再建しない」という取り決めがあり、幕府は1867(慶応3)年に遊郭を吉原町(現在の伊勢佐木町2丁目付近)に移転。
港崎遊郭の跡地は横浜公園に
沼地だった吉原町8千坪を埋め立てて吉原遊郭を開業したが、1871(明治4)年再び火事のため焼失。
1872(明治5)年7月、横浜港に停泊中のペルー船籍マリア・ルス号から清国人苦力(苦力は下層労働者の呼称)が脱走し、人道的観点から日本政府が苦力231人を解放した「マリア・ルス号事件」が起こる。
ペルーはこれを不服とし、「日本の遊女はどうなんだ!」と強烈なツッコミ。当時は借金の肩代わりに遊郭に売られる幼女が多かったのだ。焦った日本政府は同年10月に人身売買を禁止した「芸娼妓(しょうぎ)解放令」を公布。
しかし、場所を貸して娼妓(解放令以前の遊女)の自由意思で売春を行う“貸座敷営業”が続けられ、実態は以前の遊郭と変わらなかった。
1872(明治5)年11月に開業した高島町遊郭は営業期間終了のため、1888(明治21)年に永楽町・真金町へ。約2万坪の広さを誇る永真遊郭として開業した。
下町の雰囲気が漂う真金町「横浜橋商店街」
真金町に遊郭があった名残といえば、碁盤目状の区画と1859(安政6)年に岩亀楼主人により港崎遊郭に建立された金刀比羅大鷲神社(ことひらおおとりじんじゃ)だろう。
1872(明治5年)、金刀比羅大鷲神社は遊郭の移転に伴い高島町に移転。1882(明治15)年、同様の理由で南区真金町に移転した。
色鮮やかな金刀比羅大鷲神社
寄進者の中には松宮が敬愛する「笑点」の司会・桂歌丸師匠の名が!
真金町の遊郭「富士楼」で育ったという桂歌丸師匠
1900(明治33)年には内務省令として“娼妓は名簿に登録され、警察が管理する”娼妓取締規則が公布。娼妓が届出し、国が営業を許すという「公娼制度」が確立された。
1908(明治41)年、永真遊郭には貸座敷が67軒、娼妓が1,463人。大正中期になると、貸座敷が80余軒、娼妓の数は1,800人を超え、隆盛を極めた。