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幻の力士調査からよみがえる磯子区・岡村天満宮の幻の遷座

幻の力士調査からよみがえる磯子区・岡村天満宮の幻の遷座

ココがキニナル!

かつて力士として存在した磯子山は、以前、磯子区の岡村町付近にあった磯子山と関係しているのでしょうか?ぜひ調べてください。(hidekunさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

力士・磯子山との関係は不明。だが、旧・磯子山に近い岡村天満宮と大相撲は深~い結びつきが。さらにそこから、戦争によって途絶えた岡村天満宮の幻の遷座がよみがえる!

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ライター:結城靖博


そもそも磯子山ってどこだ?




hidekunさんのキニナル投稿には、さらりと「磯子区の岡村町付近にあった磯子山」と書いてあるが、現在の地図で見てもその場所はわからない。

赤枠内が磯子区岡村町


また、図書館に行って分厚い磯子区の郷土資料に目を通しても「磯子山」の記述はなかなか見当たらない。

こんなとき、ニッチな地域の歴史を調べるのにとても役立つのが、その地域の小学校の周年記念冊子だ。横浜市立磯子小学校の『創立130周年記念資料集 わたしたちのまち磯子』のページを丁寧にめくっていくと、文中に「磯子山」を発見!

それによると、磯子山はかつて磯子小学校の裏手に位置していたという。「春には桜が咲き、あたり一面桜色になりました」と、記念誌には書かれている。

というわけで、さっそく磯子小学校へ行ってみる。だが、現在磯子小学校は密集した住宅地の中に存在し、「裏山」を望もうとすればこんな写真しか撮れない。


磯子小学校の裏手から、フェンス越しにかつての「磯子山」と思われる丘陵地を望む


なお、昔は磯子小学校の前に「禅馬川(ぜんまがわ)」が流れていた。さらさらと流れる川にはメダカやオタマジャクシがいっぱい泳いでいたと記念誌は記しているが、


今はその川もこんな様子


すっかり川面を塞がれた暗渠(あんきょ)となり、小学校裏手の道と化している。とはいえ、写真左手に読める「禅馬自治会」という掲示から昔日(せきじつ)がしのばれる。


小学校のグラウンドを左手に見るこの路地を抜けると



正門側の少し広い道路に出る



道をはさんだ正門の向かいは、真照寺(しんしょうじ)というお寺だ


この寺院は、寺伝によれば平安時代末期に「再興」されたというから、それ以前からある古刹である。


方角的には、磯子山はこの寺院左手の脇道を入った先に当たる



脇道へ入ってみると、すぐに上り坂が始まり



曲がりくねりながら傾斜が次第にきつくなっていく


きれいに舗装された道ではあるが、だんだん登山気分になってくる。確かにここは「山」だ。


上りきる途中左手に「STAGE21 磯子」という表示があった



そしてこれが、上りきった辺りの光景


そう、ここは現在「東急ドエルステージ21磯子」という、広大なマンション群の敷地になっている。建物は異国情緒に溢れ、高級感が漂う。ここだけ別世界のようだ。


頂上付近から磯子小学校方面を望む


山頂が造成され、マンションの開発が進められたのは1990年代からのようだ。

実はこの磯子山のほかに、付近には現在の地図では地名が見つからない山が、あと2つある。「へび山=腰越山(こしげやま)」と「はなれ山=伊勢山(いせやま)」だ。

この3つの山が、かつては磯子小学校の北西側に、きれいに並んで存在していた。いずれも、昭和30年代の終わり頃から始まる宅地開発によって、山頂が削られ大規模な集合住宅などに生まれ変わり、地図からその名を消す。

下は1906(明治39)年に測量された地図と現在の地図を比較したものだ。磯子小学校は1873(明治6)年に真照寺境内に開校された「小学真照学舎」を起源とするので、この頃はもうすでに存在していた。


(『今昔マップon the web』より)


なお、古地図上に示した「根岸監獄」は、あくまで参考までに表記したもの。笹下(ささげ)にある現在の横浜刑務所の前身で1936(昭和11)年までここにあったが、詳しくは過去記事に目を通してほしい。



力士・磯子山と幻の山・磯子山との関係や、いかに?




幻の山・磯子山については以上の通りその姿が見えてきたのだが、キニナル投稿が問う肝心の力士・磯子山との関係は果たしていかなるものだったのか?

文字数の関係から省略したが、もともとのキニナル投稿には「相撲レファレンス」サイトの力士情報がリンクされていた。それによると、1959(昭和34)年5月に前相撲で初土俵を踏んだ磯子山は、翌場所序ノ口35枚目となり、その場所の成績が0勝0敗8休。そして、その数字がそのまま生涯成績となっている。

つまり、序ノ口に上がったものの一度も本相撲は取ることなく角界を去っているのだ。しかも出身地も所属部屋も本名も不明と来ては、調べようにも、まったく取っ掛かりが得られない。

横浜出身力士を探してみたが、磯子山の名前はどこにも見当たらない。その代わりと言ってはなんだが、1940年代に活躍した磯子区出身力士は見つかった。その名は「若潮(わかしお)」。最高位が前頭6枚目なので、まずまず出世した力士と言える。

というわけで、今回のキニナル投稿に対する直接の調査結果は、残念ながら得られずじまいとなってしまった・・・。



幻の力士調査から磯子と大相撲の深い結びつきを発見!




だがしかし!「幻の力士・磯子山」の調査過程で、磯子、というより岡村町付近と大相撲には、過去に深い結びつきがあったことを知る。
せっかくなので、この先はその出来事について紹介していきたい。

舞台は磯子小学校から直線距離1km弱、ステージ21磯子から同500メートルほどの位置にある岡村天満宮と岡村公園だ。

磯子小学校の西側に岡村天満宮と岡村公園がある



現在の岡村天満宮


真照寺同様やはり歴史が古く、鎌倉時代の建久年間(1190~1199年)創建といわれる同神社は、「学問の神様」菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祀る。


当然、境内にはたくさんの「合格祈願」の絵馬が奉納されている


この岡村天満宮に、今から80年以上前の1937(昭和12)年、「幻の遷座(せんざ)」計画があった。社殿が老朽化したため、新社殿を今ある敷地から丘の最高部に移転・新築しようとするものだった。


新社殿の予定地はココ


岡村天満宮から天神道路をさらに上った先、岡村公園内のもっとも高い場所に広がる、現在の野球場付近だ。


野球場の裏手から根岸湾方向を望む


左側に見える白い建物群は、旧・磯子山の上に建つ「ステージ21磯子」。

この遷座計画の顛末については、地元の郷土史家・葛城峻(かつらぎ・しゅん)氏が今から6年ほど前に発行した『やぶにらみ磯子郷土誌』の中で詳しく綴っている。本稿はそれに基づいて紹介していきたい。



地元総出の大事業だった遷座工事




由緒ある地元の村社を鶴岡八幡宮にも匹敵するほどの大きな神社にしようという遷座計画は、青年団や婦人会らの力も借りた地域ぐるみの一大事業となった。


起伏の多い原野の参道普請。1935(昭和10)年頃(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


この参道普請が現在、岡村天満宮前交差点にある一の鳥居から岡村公園の先まで続く天神道路として生かされている。


現在の天神道路。下り坂の向こうにかすかに一の鳥居が見える



こちらは逆に、岡村天満宮前交差点の一の鳥居から天神道路を仰ぎ見た光景



新社殿用地整地。1935(昭和10)年頃(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


遷座工事当時の上の写真の場所は、おそらく現在の岡村公園野球場付近と思われる。モンペとかっぽう着姿の女性たちは、婦人会の面々だろうか。


建築用材は紀州の山奥から伐り出した逸品だったという。1935(昭和10)年頃(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)



地鎮祭は市長臨席のもと盛大に執り行われた。1935(昭和10)年頃(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


また、お神楽や稚児(ちご)行列、記念運動会なども催されたという。


定かではないがその時のお神楽だろうか。昭和初期(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


上の写真も大勢の人々でにぎわっているが、この新社殿造営にともなう行事の中でもっとも大きなイベントとなったのが、地固め神事として執り行われた「奉納大相撲」だったのだ。

…と、ようやくここで、話は相撲とつながった。



横浜じゅうから老若男女が集まった大相撲




時は1937(昭和12)年5月26日。当時の三横綱、玉錦(たまにしき)・武蔵山(むさしやま)・男女ノ川(みなのがわ)をはじめ大相撲の幕内力士たちが、ここ岡村の地にやってきたのである。

テレビのない時代、新聞や雑誌でしか見たことのない看板力士たちを一目見ようと、この日、横浜じゅうから人々が押し寄せたという。


興行当日、関係者の記念写真(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)



この日のために建てられた相撲小屋(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)



普請された参道を上って会場入り口に入っていく人々(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


大人と手をつないで歩く子供たちの姿が目立つ。当時の子供たちにとっては、ワクワクドキドキのひとときだったに違いない。

子供たちは支度部屋に裏から潜り込んで、力士の腕にぶら下がったり、太鼓腹を叩いたりして大騒ぎしたという。


参道にずらりと並ぶスポンサー付きの幟(のぼり)(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


タクシーで乗りつけた横綱・玉錦が車から降りると、スプリングが戻って車体が20cm持ち上がったのを、観衆が目を丸くして見ていたというエピソードも残る。


そしていよいよ力士たちの土俵入り(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


古写真のためちょっとピントは甘いが、すし詰めの観衆の、土俵へ注ぐ熱気が伝わってくるような一枚だ。

取り組みそのものの様子が残されていないのはちょっと惜しいが、岡村天満宮から提供され現在磯子図書館に所蔵されている一連の写真は、貴重な歴史の証言と言える。

ところで当時の三横綱のうちの一人であった武蔵山は、今日に至るまで神奈川県出身力士の中でただ一人の横綱だ。横綱昇進後は怪我で苦しみ「悲劇の横綱」とも呼ばれたが、おそらくこの日、横浜市民たちの視線は、彼に最も熱く向けられていたのではないだろうか。



その後、遷座はどうなったのか?




岡村天満宮は、今も岡村公園の下に位置する。つまり、遷座はならなかった。

それは、なぜか?

新社殿造営のための奉納大相撲が開催されたひと月半後の1937(昭和12)年7月7日、中国北部の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、いわゆる「盧溝橋事件」が起こる。そして、この事件を発端に、日本は日中戦争の泥沼に突入していく。

この社会情勢は岡村天満宮にも波及する。遷座のために用意された「逸品」の資材は軍用に回され、地域住民一体となって整地された新社殿用地は手付かずのまま雑草が伸び放題になっていく。

さらに太平洋戦争に拡大すると、新社殿用地には陸軍の高射砲部隊が駐屯、続いて敗戦後は進駐軍に接収され、接収解除後は自衛隊の高射砲部隊陣地となり、ようやく市民に解放されたのは、1958(昭和33)年のことだった。


進駐軍接収中のクリスマス記念写真。1950(昭和25)年頃(磯子図書館所蔵、岡村天満宮提供)


ただ、上の写真をよく見ると、進駐軍の兵士と老若男女の住民たちが、みんなにこやかに写っている。特に写真中央右寄りの、着物を着たおかっぱ頭の女の子を抱きかかえる兵士の笑顔が印象的だ。

これはこれで、終戦後に一変した平和な国を象徴するような一枚と見ることもできるだろう。



取材を終えて




幻の力士・磯子山の調査から、岡村天満宮の幻の遷座へ話は展開していった。奇しくも「幻つながり」である。

ところで今、岡村公園を訪ねると、岡村天満宮の遷座のために活気づいたことや、その後戦争に翻弄されたことなど、想像もつかない。


野球場の横には広々とした芝生や遊戯施設がある


そして、この場所でおよそ85年前、大相撲の興行が行われたということも、すっかり歴史の闇に埋もれている。

キニナル投稿者・hidekunさんの問いには答えることができなかったが、それをきっかけとして、歴史の記憶を掘り起こすことができた。hidekunさん、感謝です!


―終わり―


取材協力
横浜市磯子図書館
住所/横浜市磯子区磯子3-5-1
電話/045-753-2864

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/


参考資料

『やぶにらみ磯子郷土誌』葛城峻著、磯子区郷土研究ネットワーク発行(2015年2月刊)
『創立130周年記念資料集 わたしたちのまち磯子』横浜市立磯子小学校発行(2003年6月刊)

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  • 投稿した本人です。まさか一人の力士の調査からこんな大きな話になるとは思いませんでした。岡村天満宮も毎年かかさず初詣に行くくらい近所のため、こんな壮大な歴史があったことに驚きました。力士・磯子山については謎のまま終わってしまいましたが、とても興味深い調査していただきありがとうございました。hidekun

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