川崎大師名物「久寿餅」の秘密を教えて!!
ココがキニナル!
川崎大師の名物「久寿(くず)餅」は、京都の葛餅と異なる理由はなんでしょうか。大師周辺で久寿餅を販売するようになったきっかけは何なのですか。(恋はタマネギさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
水にぬれた小麦粉を再利用したのがきっかけ。大正時代、近隣に味の素工場が設立され、小麦粉を原材料とするデンプンが安価に入手でき店舗が増えた
ライター:河野 哲弥
「久寿餅」は、「味の素」の副産物?
続いて、「この絵を見てください」と池上さんが指さしたのは、店内に飾られた、1912(大正元)年に描かれたとされる一枚の地図だった。
現在の位置と変わらない場所に描かれている「住吉屋総本店」
池上さんによれば、当時は参道などで飲食をするのはタブーとされ、料理店は仲見世(なかみせ)から離れたところで営業をしていたそうだ。
一見境内に隣接している「住吉屋総本店」だが、仲見世を中心としたアプローチを考慮すると、むしろ「裏手」といった場所にある。
それぞれの位置関係(Google Mapより)
その後、時代とともにタブーが薄れていくと、仲見世に茶店などが登場するようになった。そこで、「住吉屋総本店」の支店として川崎大師入口にオープンしたのが、現在の「住吉」とのこと。
「久寿餅」の人気を二分する同店は、「住吉屋総本店」二代目の弟さんが、のれん分けをして構えた店であるそうだ。
現「住吉」の場所に、「住吉支店」の文字が確認できる
一方、ちょうど同時代の1914(大正3)年、川崎大師のすぐ隣に「味の素川崎工場」が設立された。
「味の素(以下、製品を表すときは味の素)」では当初、うま味の元になるグルテンを、小麦粉を水にさらすことで生産していた。そして、副産物であるデンプンを、大量に抱えていたのである。味の素広報によれば、味の素1の割合に対してデンプンは20生産され、その処理方法が課題だったという。
川崎大師駅から見た、「味の素・川崎事業所」
鈴木町という駅名は、「味の素」の創業者である鈴木氏の名字に由来
ここで思い出されるのは、久兵衛のエピソードだ。全く同じことが、わずか目と鼻の先の、「味の素川崎工場」内で行われていたのである。
「久寿餅」の原材料は、偶然にも、安価かつ大量に確保されることになった。こうして川崎大師名物は、期せずして、定着していく足がかりを得た。
なお、池上さんによれば、味の素の製法が変わったことなどにより、現在では専門業者から原材料を仕入れているそうだ。
川崎の名物として、新たなブームとなるか
こうして見ていくと、「久寿餅」は、川崎大師と深い関わりを持ちながら、いくつかの偶然により名物として広まっていったことが分かる。
そして今では、神奈川県のグルメの特集などで欠かせない、川崎エリアを代表するメニューの一つになったようだ。
「久寿餅サンデー」や「カップ久寿餅」などもある、仲見世入口の様子
もし、上品さを求めてくず粉にこだわっていたなら、ここまでの発展はなかったかもしれない。
「久寿餅」未体験の方はもちろん、食べたことがある方も、ぜひ一度味わってみてほしい。歯切れの良さに、歴史のおもしろさが加わり、ひと味違った味覚が体験できると思う。
―終わり―
おとうさん
2014年10月04日 08時17分
素晴しい取材です。現在は葛餅界ナンバー1の売上を誇る幸せ?の黄色袋『住吉』が、実は『住吉屋総本店』の末流に過ぎなかったことが非常に良く理解できました。しかしながら、かつて友人が『住吉屋総本店』の裏側に住まいなしていたのですが、往時かれの家に遊びに行くと、辺り一面いつも蕎麦を放っといて腐らせたような、非常に酸っぱくて臭い匂いが漂っていたことを記憶しています。いま考えると『住吉屋総本店』の製造過程の公害だったと思います。現在は臭いが無くなったのでしょうか?
ホトリコさん
2014年06月22日 11時12分
工業高校卒業後、就職先がこの近くの町工場だったので、さすがに平日は毎日三時間残業後なのですべてのお店が閉店後、土曜日も出勤が当たり前の時代だったので、土曜日になると途中下車して親や家族のお土産によく買って帰りました。由来はお土産の中の箱の裏?だったかな?に書かれていたので知ってはいたのですが、もちもちしてて美味しいですよね。
REYさん
2014年01月17日 17時30分
jpさん 亀戸天神のが創業は古いよ 起源ではないよねただ その店の歴史ではあると思うけど