「東洋一」の遊園地「花月園」に対抗してつくられたのに誰も聞いたことがない「三笠園」ってどんなところ?
ココがキニナル!
大正9年、岸谷に「三笠園」という遊園地が。当時、東洋一と言われ花月園に対抗して作られたが、聞いたことがないがと思うがどんなところだったの?(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1919(大正8)年に山崎積蔵という生糸商により「鶴見で花月園と並び称される」自然公園としてつくられたが経営難により8年で閉園
ライター:ほしば あずみ
オリンピックの予選も行われた
房野池では、1920(大正9)年にベルギーのアントワープで開催されたオリンピックの競泳の練習や予選が行われた。
日本がオリンピックに参加するのはストックホルムに続いてこれが2回目。競泳は初めての参加種目だった。従来の日本の水泳は伝統的な古式泳法だったため、これを機に、競技用にはじめて近代泳法がはじまった。
競技会場となった房野池(横浜中央図書館所蔵)
予選には明治時代の宮家である初代朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)が臨席。内田正練(まさよし)、斎藤兼吉の2人が日本代表として選ばれた。オリンピックではそれぞれ100メートル自由形と400メートル自由形に参加したが、2人とも100メートルの記録は不明。
400メートルは内田が6分40秒0で予選落ち、斎藤は6分16秒8で準決勝棄権の記録を残している。ちなみに現在の400メートル自由形の日本記録は萩野公介選手の3分44秒82である。
奥に数字がうたれたスタート台のようなものが見える(横浜中央図書館所蔵)
房野池の広さは3000余坪(約1ヘクタール)と、サッカーのグラウンドが悠々収まるほどの広さがあり、競技を行うのに適当だったのだろう。オリンピックの予選会場に使われたことが評判を呼び、三笠園は有名になったという。
誰かが飛び込んだのか水しぶきがあがる水面(横浜中央図書館所蔵)
関東大震災後の1924(大正13)年には山崎積蔵の個人経営から、三笠園土地住宅株式会社(取締役社長:谷村清衛<きよえ>)という会社経営へ変わる。
そのころ園内には、大花壇野外劇場、大運動場、児童遊技場、ボート、和洋の食堂数軒があった。
食堂? 建物の写った絵葉書もある(横浜中央図書館所蔵)
また、翌1925(大正14)年には、名古屋国技館だった建物を「三笠館」として移築しつつあり、大温泉浴場も建設中だったようだ。
名古屋国技館は、東京駅や日本銀行の設計で知られる建築家・辰野金吾によって設計され1914(大正3)年に完成したが、入場者数が伸び悩み経営難に陥って10年足らずで閉鎖したもの。
名古屋国技館。立派な建物だ
だが、三笠園も客足が伸び悩んでいた。
同年、8月25日付の朝日新聞では、花月園は桜のシーズンだった昨年4月の第3日曜日の入園者数が約10万人、1922(大正11)年以降の毎年の入園者の平均は有料(60銭)者約80万、無料者約20万と紹介している。ちなみに1924(大正13)年の横浜市の人口は38万9700人。この時代、東京の上野動物園の入園料が大人10銭、映画館入場料は30銭だったので、花月園で遊ぶのはちょっとした贅沢だったといえるだろう。
一方、三笠園のことは、草花以外にまだ大した施設もなく、便利が良くないために入園者が少ないようだ、とふれるにとどまっている。
結局、2年後の1927(昭和2)年には開園からわずか8年で閉鎖となる。
「三笠館」や大温泉浴場は完成していたのかどうか、記録は残っていない。
三笠園のあった場所は今
三笠園があった場所は、現在岸谷公園として整備されているという。在りし日のおもかげを見つけることはできるだろうか? 現地を訪ねてみた。
京急「生麦駅」から徒歩で10分ほどの場所だ。
駅前に「三笠家(みかさや)」という屋号の和菓子店があった
「三笠家」は1932(昭和7)年に創業した和菓子店だったが、残念ながら既に閉店済していた。その屋号はやはり、三笠園が近かったことや日露戦争の旗艦の名、どら焼きを「三笠」と呼ぶことなどにちなんだものだったそうだ。
房野池は埋め立てられ、1937(昭和12)年に市営の岸谷公園プールとなった
明治時代の地図と見比べると、房野池の輪郭が残っているのがわかる
起伏のある地形は変わらないが、すっかり住宅街となっていて池や三笠園のおもかげをたどるのは難しい。
四季折々の花が美しさを競ったかつてをしのぶにはやや寂しい花壇
子どもたちはいつの時代も元気に公園で遊ぶ。声をかけると「三笠園? 知らなーい!」
かつてはオリンピックの競泳予選が行われたとはにわかには信じられないほど、いたって普通の公園とプールだ。
公園は周囲より窪んでいて、池の名残を思わせる
公園の周囲には樹齢の高そうな桜があった
もしかすると、房野池の周りに植わっていた桜並木の桜なのかもしれない、と想像すると、当時のにぎわいをわずかに感じることができたような気がした。
取材を終えて
「花月園競輪場の前身「花月園」が東洋一の遊園地だったって本当!?」で登場した『鶴見花月園秘話 東洋一の遊園地を創った平岡廣高』(齋藤美枝著/鶴見区文化協会/ 2007年)でも三笠園は触れられており、それによると入場は無料で、大掛かりな仕掛け花火やアメリカのカウボーイによるロデオ披露などで人気を博していたようだ。
だが営業期間はわずか8年あまり。その間に起きた、関東大震災や金融恐慌といった社会情勢も経営を逼迫させた要因であったろう。
その短い営業期間ゆえに花月園ほどは知られることがない存在となっってしまったが、人々が集い、憩う公園として今でもそこは親しまれている。
ムクスケさん
2014年01月04日 22時55分
地元民です。子どもと一緒に公園やプールによく遊びに行きます。池があったことは知っていましたが、遊園地があることまでは知りませんでした。すぐそばに池の名前がついたマンションがあります。由来のある名前だったんですね。
いひでさん
2014年01月04日 19時51分
まったく知りませんでした。ありがとうございます。
猫丼さん
2014年01月04日 16時34分
いわゆる三溪園的なものなんすか?経営、ねぇ