まるで浮いている? 天空の寺? 謎の構造をした台町の三宝寺の正体は?
ココがキニナル!
台町の三宝寺さんの足?土台、基礎が気になります!(thaiさん)/東横フラワー緑道の横にそびえ立つお寺、三宝寺。お寺とは思えない建造物ですが、どういう経緯であのような建物になったの(やすをさん)
はまれぽ調査結果!
先代の住職が書いた設計書にもとづいてできた三宝寺。かつて旧東海道沿いに大綱金刀比羅神社とならんでいたが、50年ほど前に現在地まで上昇
ライター:永田 ミナミ
三宝寺の「足」の謎
さて、三宝寺に「足」についてうかがってみると、現在の樋口住職から「これといった目的はないんですが、50年近く前に先代の住職によって、今のようなかたちになったんですよ」という回答が返ってきた。造成によって山の斜面が削り取られて「足」が本堂を支えるようになったわけでもないという。
たしかに山を削ってもその下にあるのが「足」だけでは造成の意味がない
道路側のマンションとその土地は、現在は三宝寺の所有ではないが、マンションとの取り決めによってマンション参道が設けられているという。
現在のような状態になる以前の三宝寺は旧東海道沿いにあり、今は見下ろしている大綱金刀比羅神社と地続きで隣り合っていたというから、上昇によって面する道路が本覚寺上の坂道に変わってしまったというかなりアクロバティックな変化を遂げている。
江戸時代に隣り合っていた様子は緑道の横にある案内板で見ることができる
(※編集部注 一里塚=1里(約4km)ごとに街道に設けられた路程標。秀吉も築いたが、江戸幕府が整備。江戸日本橋を起点に1里ごとに塚を築き、榎(えのき)や松を植えた。(『改訂版日本史B用語集』山川出版社)
案内板の絵にぐっと寄ってみるとこんな感じで板塀をはさんで寺社が隣りあう
三宝寺は緑色部分。一里塚をはさんで左側が金刀比羅神社、手前が東海道
つまり、マンション参道から境内に向かうルートはある意味正しかったわけだ
絵のなかの三宝寺境内を見てみると、本堂は東海道より奥まったところにあることがわかる。これは現在の本堂の位置とほぼ同じようだ。そして、本堂と東海道の間にはある程度の距離があることも見てとれる。
東海道から石垣の上の小高い部分を含めた本堂までの赤い部分のスペースは
小高い部分を削るとマンションがすっぽり入りそうな気配
地上時代の写真はあるか
三宝寺には残念ながら上昇前の本堂の写真は残っていないという。そこで資料を探してみたが、三宝寺の写真はなかなか見つからない。横浜市史資料室に問い合わせてみたが、三宝寺がうつった写真はないとのことだった。
『かながわ区物語 海・緑・街・人』(1988<昭和62>年発行)には、金刀比羅神社宮司の吉田氏の話として「家から桜木町、高島町の駅が見えて、寺(三宝寺)の隣が駅に出るトンネルになっていた。ホームに電車が入ったのを見て、急いで靴を履いて駆け込んでいったものです」とあったので問い合わせてみたが、金刀比羅神社にもやはり写真はないという。
金刀比羅神社の鳥居のむこうに見える天空の寺
階段の両側には石垣があり、往時をしのばせる
この石垣の高台が三宝寺まで延びていたのだ
ただし、三宝寺の本堂は地上からほぼまっすぐ上昇したが、位置は以前とあまり変わらないという話、また本堂の手前には東横線まで墓地があったという話などを聞くことができた。そしてそのことは、三宝寺の樋口住職にも確認できた。
ちなみに緑道横の案内板の地図には1926(大正15)年〜50(昭和25)年まで、地上時代の三宝寺のすぐ横に存在した東横線神奈川駅の場所が示されている。
写真中央の、点線で四角くかこまれた場所に神奈川駅があった
続いて、広重の「東海道五十三次」の神奈川宿に前身の「さくらや」が描かれていること、坂本龍馬の妻おりょうが一時期働いていたことでも知られる料亭、田中家にも問い合わせてみた。しかし、5代目女将である平塚さんは所有している写真を確認してくださったほか、図書館や市役所などにもきいてくださったが、やはり写真は見つからないとのことだった。
さくらやから田中家になったのは1863(文久3)年。ここにもないとは
ただし、金刀比羅神社と三宝寺の間にはかつて銭湯があり、子どものころ(今から50年ほど前)はよく通っていたという話を聞くことができた。
開港間もないころから続く田中屋にもないとなると、いよいよ地上時代の写真は難しくなってきたが、少しずつ当時の様子が浮かびあがってきていることもたしかだ。
そこで、最後にと一縷(いちる)の望みをかけて、三宝寺のすぐ近くにお住まいの方にお話を聞いてみると、一縷どころではなく、いろいろとたくさんお話を聞かせてくださった。
そして突然、いろいろとわかる
100年以上前から台町に住まいを構えるその方の話によると、三宝寺が現在のようになった経緯は、旧東海道側の土地を手放してマンションが建つということになり、交換条件として本堂が上昇したようだ、とのことだった。
そして、不思議な土台は、先代の住職が自ら書いた設計案をもとにつくられたという。高層建築のため日照権などの問題で近隣住民へ説明する際は、住職が自ら書いた設計案を持って説明してまわったといい、お話を聞かせてくださった方の家もそうだったとのこと。
まさか住職による設計だったとはと驚くと同時に、だからこそかという納得感
建築のプロフェッショナルではない先代住職の設計案によるものだと考えると、土台の独特さも納得がいくといえばいく。しかし、現在の本堂が完成後、それほどたたないうちに先代住職が世を去ってしまうと、後継者がいない状態になってしまった。そこへ、現在の住職が紹介されてやってきたそうで、現在の住職が事情をよく知らないのも仕方がないとのことだった。
また、現在の状態になる前の三宝寺の様子についても話してくださった。マンションが建つ以前は、旧東海道に面して白い漆喰(しっくい)の塀と、朱塗りの格子の門があり、石畳の通路があったという。子どものころは、朱塗りの門の上にのぼって遊んでいて、先代住職によく怒られたそうだ。境内に入ると左手に井戸と板碑(いたび)があった。東海道沿いだったことから、旅の途中で行き倒れになってしまった人たちのものだったかもしれない、とのことだった。
少し進むと最初の階段があり、それをのぼると、左側に誰のものかは覚えていないが大きな墓と無縁仏を弔う塚があった。そしてその先の石段さらにのぼると、石畳は崖下まで通じていて左側に墓地、右側に本堂という位置関係。戦中には本堂が兵士の宿舎になっていたこともあり、数十人の兵士が寝泊まりしていたという。
現在、三宝寺の墓地は坂の上の現在の正門を入った右側に移動している。
話をもとに再現してみた地上時代の様子。細部については記者の想像による
取材を終えて
三宝寺本堂の独特な足というか土台というか基礎をつくった先代の住職は、変わった人物であったという。その変わり具合は、地上にあった本堂を、下にビルをつくるでもなくコンクリートの骨組みの上に、いわばジャッキ・アップして崖上の坂道につなげてしまうというアクロバティックな工事からも推察できる。
かつて境内にあったという無縁仏の塚や墓地は現在なくなり、風景は様変わりしているが、葬られた魂が安らかに眠られていることを願うばかりである。合掌。
―終わり―
参考文献
『かながわ区物語 海・緑・街・人』横浜市神奈川区役所区政部区政推進課(1988)
ushinさん
2014年06月06日 12時18分
タイトルにある「設計書」は、あくまで住職が、クライアントとしての基本構想の要望を出したっていう、S村河内さんの書いた「精密な設計書(実は子供の落書き)」とかに類する話だと思うが、それでも当時の設計基準が現在の耐震構造を満たしているのか?何らかの補強工事が為されているのかも前から気になっていたところです。
N-Hさん
2014年06月02日 11時12分
三宝寺は東横線が地上を走っていた時代にいつも車窓から気になっており、緑道になってから訪れてみてはじめてその驚異の構造を実感することになりました。この界隈、天下の横浜駅から徒歩数分でこんな不思議な場所があるのかと思わせる物件がほかにもたくさんありますね。
親父の海さん
2014年06月01日 13時08分
ビグザムはモビルスーツではなく、モビルアーマーだったと思う。