かつて近代化の象徴だったが入居者がどんどん減って閉鎖された、山手の「竹の丸団地」は今後どうなる?
ココがキニナル!
山手の竹の丸県団地ですが最近入居者がどんどん減って全体の1割くらいしか入居していないようです。今後取り壊しや立て直しの予定があるのでしょうか?(レイモンドさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
建物の老朽化のため入居者を退去させ、2013(平成25)年閉鎖された。今後の展開に関しては検討中。
ライター:小方 サダオ
神奈川県住宅供給公社にお話を伺う
竹の丸と大和町にあった団地の今後の展開に関して、神奈川県住宅供給公社の吉崎さんにお話を伺った。
中区にある神奈川県住宅供給公社のビル
まずは公社の沿革に関して伺うと「神奈川県住宅供給公社は、1950(昭和25)年9月15日に神奈川県の出資金により『財団法人神奈川県住宅公社』として設立され、同年11月に川崎市、1952(昭和27)年3月に横浜市が出資参加しました。 1966(昭和41)年6月30日に地方住宅供給公社法に基づき、神奈川県を設立者として特別法人『神奈川県住宅供給公社』に組織を変更し今日に至っています」
「戦後は大量な住宅不足の解消と都市の不燃化が命題でしたが、時代の変遷とともに公社の役割も変化してきており、現在では賃貸住宅の運営や老朽化した住宅の集約・建替を中心に事業展開を行なっています」とのこと。
神奈川県住宅供給公社は県の外郭団体だ
次に県営住宅や市営住宅との違いに関して伺うと「県営住宅や市営住宅は公営住宅法に基づき、地方自治体が直接運営を行っている、いわゆる『公営住宅』と言われるものです。それと比べて神奈川県住宅供給公社など地方自治体ではない公的団体が運営するものは『公的住宅』と表現されます。公営住宅は収入基準の上限が設けられているなどの条件がありますが、これに対し公社住宅では収入基準の下限が設けられているなど、入居基準に違いがあります」と答えてくれた。
そして、神奈川県住宅供給公社の記念すべき、第1号の一般賃貸住宅であった大和町団地に関してお話を伺う。
特徴に関しては「1951(昭和26)年に竣工。水洗トイレが完備されており、建設当時は『文化住宅』などと言われていましたね。そして、山手駅からも近く、高い入居率を誇っていました。現在は建て替え工事が終了し、入居者募集を5月中におこない、6月に竣工、7月入居開始の予定です」
山手駅前とは思えない家賃であった(公社の賃貸・神奈川県住宅供給公社より)
風呂場がないタイプだ
近くに銭湯がある
つづいて竹の丸団地に関しては「1954(昭和29)年に竣工しました。一部の住棟に採用されたメゾネットタイプの間取りは、当時は珍しかったと思います。大和町団地同様、山手駅から近いため、高い入居率を誇っていましたが、2013(平成25)年3月現在は事業を終了し、老朽化による安全確保のために立ち入り禁止としています」と答えてくれた。
家賃は大和町の約2倍だ
竹の丸団地の間取り
1・2階のあるメゾネットタイプの間取り
丘の最上部に立つメゾネットタイプの住宅
1号棟の建つ崖にはひびが入っている
竹の丸団地の今後の見通しについて
ところで竹の丸団地の今後の見通しに関しては、退去後間もなく建て替えを始めた大和町の場合
とは状況が異なる、という。
「現在は近隣住民の方々からの要望を受け、敷地内通路の道路移管について横浜市と協議中ですので、しばらく時間がかかりそうです。これが解決された後に、今後の土地利用の検討を行なうことになります」と答えてくれた。
周辺住民が利用していた団地内の道路
団地の周辺には多くの住宅が建つ
住宅地の中の団地へと続く道路
現在は通行できない
竹の丸団地の場合は、敷地内通路に関してなど、近隣の住民との兼ね合いが関係しているようだ。神奈川県住宅供給公社の公的団体としての立場から、今後の展開が決まりづらくなっていることもありそうだ。
周辺住民の方に竹の丸団地に関して話を伺う
続いて今回の公社の団地に関して周辺住民はどのように思っていたのだろうか? 地元の方に伺ってみた。
山に面した、港方面の絶景が望める家に住むT・Mさんは「駅に近くて便利だし、抽選じゃないと当たらない人気のところでしたよ。小学生の時の友人が住んでいました。父親は高収入だったようで、メゾネットタイプに一世帯が1階と2階に住んでいました」とのこと。
一番高い場所に建つメゾネットタイプ
1・2階を一世帯で使用する
また商店街のあるお店で働くOさんは「私の家は団地の前にあります。当時は周りが木造の平屋建てばかりでしたので、カッコイイな、という印象はありました」
古い家屋の後ろにそびえる竹の丸団地
現在の団地の周りには近代的な住宅が多くなっている
団地の周囲は高級住宅地のエリアとなっている
「環境は南向きでいいですよね。昔は山手駅がなかったため、バスだけでしたが、それでも人気がありましたね。結婚していないと入れない、などの条件があったそうですよ。しかしずっと住んでいた人が多かったせいか、最後は老人ばかりで老人ホームのようになっていました。退去したあと3ヶ月ほどで、転居先で亡くなった老人の方がいました。環境が変わったからかもしれませんね。私はあのまま居させてあげたほうが良かったように思いました」
ある中国人の住人はフェンスを利用して野菜を育てていた、という
「私の家の前の一室に、中国人が住んでいたことがあり、大きなダクトを取り付けて、料理の臭いがすごくて迷惑していました。あと自分の土地じゃないからいけないと思うのですが、ベランダの前の土地をクワで耕して勝手に畑をつくっていました。また前のフェンスにはウリみたいな野菜を這わせていました。枯れて下に落ちてもほったらかしなので、私が片づけていましたよ。現在は放置状態なので、育って枯れたススキが邪魔になるため、刈ってくれるようにと公社にお願いしたりしています」と答えてくれた。
つづいて商店街でお店を営むYさんは「竹の丸団地の建築時には、線路をつくって、建設で出たドロをトロッコに載せて運んでいたんだ。そのトロッコに乗って遊んだりしていたよ。当時はハイカラな建築物で『映画のロケで使われそうだな』なんて、みんな言っていたんだ。大和町の方には知り合いがいたよ。大蔵省に勤めていて“先生”なんて呼ばれていたね。お風呂はなかったけれど、当時知り合いの住人は『自慢だ』といっていたよ」とのこと。
向かいの山から見ると、団地群はひときわ目立つ
竹の丸団地の周りでは住宅を建設中だ
また商店街の中ほどにお店を構えるY・Tさんは「大和町に関しては、住人は普通のサラリーマンが多かったですよ。建築当初のころ、我々は戦後のバラックから生活を始めていましたからね。コンクリートの入っている建物なんて珍しかったですよ。お風呂はなかったですが、数軒、室内やベランダにユニットバスのようなお風呂をつくっている人たちがいました」と答えてくれた。
建築当初周囲にはバラックもあった、という
さらに商店を営むKさんは「建築当初は、鉄筋コンクリートは最先端だったでしょう。しかし大和町の方はお風呂がなかったせいか、最後の方は入居者が少なくなっていましたね」と答えてくれた。
最後に閉鎖中のエリア周辺に住む人に、団地内の通路に関して話を伺った。
初老の女性は「この団地の中の道は、山手駅に向かう多くの周辺住民が利用していましたよ」
横浜訓盲(くんもう)学院
「この道はS字に緩やかにカーブしているため、子どもや老人、近くの盲学校の人たちには助かっていました。ほかにもいくつか坂道がありますが、急坂のため利用しづらいのです」と答えてくれた。
急で段差のある階段がある坂道
点字ブロックのある坂道。盲学校の生徒は現在この道を使っているようだ
団地内の通路の利用者は多かったとのことで、竹の丸団地は地元に根差した存在であったといえよう。
取材を終えて
戦後の焼け野原に、神奈川県が「都市の不燃化」を掲げて建てた、鉄筋コンクリートの竹の丸、大和町団地。当時の周辺住民にとっては、戦後復興のシンボルとして頼もしく映り、
「将来鉄筋コンクリートの住宅に住みたい」という夢を人々に与えた団地だったのではないだろうか?
周囲の住民に戦後復興の夢を与えた竹の丸団地
―終わり―
雪のゆきんこさん
2021年11月10日 23時06分
2歳から25歳までこの団地に住んでいました。思いつきで検索したらこの記事を見つけ、数々の写真に懐かしさで胸が締め付けられました。歩き慣れた道に通行止めの柵が張られている写真は衝撃的でした。Googleマップで確認したところ、2021年現在は取り壊されて戸建ての住宅が建てられたようです。こうして思い出の場所が無くなっていくのは寂しい限りです。
tokusannさん
2015年06月06日 08時56分
年々歳歳、花愛似たり歳歳年年人同じからず、中国の有名な詩人の句、人すべからく向上心と満足心相俟って日本は成長してきた公営住宅当面、お世話に成ります、此の気概が大切、当座は此処でやがては、自分の持屋に、の希望で頑張った、人口増加中は其れ正解でした、暮らしのレベルも上昇、最後まで公営住宅を選択する人たち、個人の自由です、終焉は誰でも迎えます終焉の地が人生の総決算、其れは自分にとって相応しいか、是も自由ですね。
エアバスさん
2015年06月04日 21時23分
私はここの1号館(1号棟をそう呼んでいた)に小学校1年まで住んでいました。できた直後からのはずです。で、先日はまれぽの記事で、山手駅周辺が取り上げられて懐かしくなり、訪問したところ、この記事のような状態で建物が残っていたので驚きました。同じ造りで横浜の他の場所で建てれていたところがすでに建て替えられているからです。この形の建物が他でまだ残っていないか、はまれぽで、調べてもらおうと思っていたところでした。これが出たのでびっくりしました。レイモンドさんのキニナルはまだ見てませんでした。訪れたとき、周辺はもちろん様変わりしていましたが、裏のがけの雑木林がまだ残っていたのも驚きで、母に話したところ、同意してくれました。貴重な文化遺産とは思いますが、姿を消すのは時間の問題かな。