横浜の主力輸出品だった生糸。その栄枯盛衰に迫る!
ココがキニナル!
昭和の初めごろ、横浜港の近くにあった生糸検査所で、たくさんの若い女性が働いていたそうです。当時、生糸は横浜の主力輸出品だったようですが、横浜のどのあたりで盛んだったの?(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
養蚕が盛んだった地域は、現在の泉区・戸塚区・瀬谷区。大正9年の生糸相場の暴落、太平洋戦争により、軍事が優先となり産業は衰退していった。
ライター:橘 アリー
建物の中の様子は?
昭和初期の横浜生糸検査所の全景(『横浜生糸検査所建築記録』より)
1932(昭和7)年に増築された北棟の様子(『横浜生糸検査所建築記録』より)
工事に使った材料は、手前にある運河を利用して、船で運ばれたようだ。
建物は、地下1階地上4階建てである。
当時の建物の図面をもとに、建物内の写真と照らし合わせてみよう。
当時の建物の配置図(『横浜生糸検査所建築記録』より)
地階と1階の平面図(『横浜生糸検査所建築記録』より)
一階総荷検査室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
2階と3階の平面図(『横浜生糸検査所建築記録』より)
2階にあった貴寶室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
2階にあった所長室2階(『横浜生糸検査所建築記録』より)
2階にあった第一応接室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
3階にあった会議室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
第二応接室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
抱合検査室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
再繰検査室(『横浜生糸検査所建築記録』より)
写真では、キニナル投稿にあるようにたくさんの女性が働いていたことがわかる。
4階と屋上の平面図(『横浜生糸検査所建築記録』より)
屋上にあった庭園(『横浜生糸検査所建築記録』より)
屋上には、噴水もあったようなので、ここで働いていた人々の憩いの場所だったのだろうか。
屋上からの眺めも良さそうなので、当時がちょっと羨ましい。
続いて、横浜第2合同庁舎として復元建替えが行われる前の様子について。
1990(平成2)年の解体着工前の様子(横浜市都市整備局 都市デザイン室 提供)
復元するために、ドアノブや飾りやレンガは丁寧に取り外されたようだ(横浜市都市整備局 都市デザイン室 提供)
解体前の内部の壁の様子(横浜市都市整備局 都市デザイン室 提供)
復元途中の装飾品の様子(横浜市都市整備局 都市デザイン室 提供)
復元された装飾は、現在の建物の外壁に取り付けられている
解体工事の様子(横浜市都市整備局 都市デザイン室 提供)
外観は忠実に復元されたが、壊してしまうのは惜しいほどモダンな建築物だったので、解体の様子を見るのはちょっと淋しい気がする。
取材を終えて
今回の調査で、生糸検査所だった建物は外壁が忠実に復元されて残っていて、養蚕が盛んだった地域には、慰霊碑など当時の名残りがあると分かった。
当時の様子を思いながら、これらの場所を訪れてみてはいかがでしょうか。
ー終わりー
ヨッチャンさん
2014年06月25日 16時37分
この記事を読んで、急に思い出した・・・取り壊しになった中区の「生糸検査所」がまだ現役のころ、地下にあった「パン屋」がとても美味しいので、昼飯時に並んで買った思い出がよみがえった・・・。知っている方はいるかなぁ。
茱萸澤村民さん
2014年06月25日 14時36分
山梨方面の生糸を運ぶために横浜線が建設された聞いたことがあるんですが。
ランナーさん
2014年06月24日 14時47分
戦後から母がこちらで40数年働いておりました。夏になると屋上でビールを楽しんだそうです。私も何回か入ったことがあり、床屋、卓球場などがあったことを覚えています。