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かつて藤沢市に存在した「藤沢飛行場」が作られたわけとは?

かつて藤沢市に存在した「藤沢飛行場」が作られたわけとは?

ココがキニナル!

藤沢に存在した「藤沢飛行場」。跡地は荏原製作所となり敷地から燃料庫を発掘。飛行場跡地の隣接地には関東航空計器が、その敷地に「東洋航空工業株式会社」時代の建物がある(goigoiさん/iidag9さん)

はまれぽ調査結果!

藤沢飛行場は1944(昭和19)年に海軍航空隊の関連施設として作られた。戦後は米軍に接収され、その後、東洋航空工業株式会社という民間の航空会社が経営した

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ライター:小方 サダオ

文献に記された藤沢飛行場の姿とは


 
続いて、戦時中から戦後にかけての藤沢飛行場について文献から詳しく見てみたい。

戦時中の航空隊の様子について、前出の『回想の湘南』によると「地下には迷路のように縦横に地下壕が掘られた。司令官には横須賀鎮守府から上田泰彦中佐、副長兼教頭として出口茂中佐が赴任、教員は50名ほどになった。部隊は当初、第13連合航空隊に編入されたが、のちに久邇宮朝融王が司令官を務める第20連合航空隊に編入」

「第一期生は同年6月20日に入営した第14期甲種飛行予科練習生(旧制中学校第3学年程度の学力を有する15~19才の志願兵)約400名。海軍ではほかの地域でもこのような若きエリートを育成していたが、藤沢航空隊の場合は戦況悪化のため戦闘機は減少しておりパイロットではなく、整備士の形で教育を行いパイロットにするつもりであった」とある。
 


藤澤カントリー倶楽部での予科練生による手旗訓練(『藤沢市文書館』より)

 
「予科練ばかりではなく、海軍士官や一般志願兵なども入隊し最大で1万人に達した。戦闘機電話は3式空1号無線電信機改三というタイプで、味方同士の会話に利用されるものだった。探信儀とはレーダーで電波を発し対象物からの跳ね返りでその位置を測定する機器。当時の最新鋭兵器を扱っていた。しかし練習機は2機しかなく、しかも燃料不足のため飛行訓練をほとんど行わないうちに結局6ヶ月の訓練を終え、実戦部隊に配属された」
 


1946(昭和21)年の旧藤沢飛行場の航空写真(国土地理院より)

 
「しかし戦局が悪化し、敵の攻撃目標になった。アメリカ側の史料には1945(昭和20)年7月30日に米軍機が来襲、飛行場にあった8機の飛行機を爆撃した。おそらく末期には基地としてほとんど機能していなかったであろう」とあった。

藤沢飛行場に入営した予科練生はパイロット候補者だったとのことで、前出のように特攻機のパイロット養成所だったのかもしれない。

また『グリーンハウス物語』には「1944(昭和19)年から地下壕建設が始まり、旧ゴルフ場の地下には縦横に張り巡らされた。総面積4万9047平方メートル。地下壕は、兵隊が起居、学習に使用したが、本来は本土決戦の持久戦に備えるためのものであっただろう。航空司令部の前庭には空気孔があるが、司令官の避難所であった」とある。
 


司令官の避難所だった場所

 
空襲の様子については、『わが住む里40号』には「藤沢の最初の空襲は1945(昭和20)年2月10日。米軍は当初、飛行機製造工場があることを把握していた。米軍の航空写真によると、日本精工を確認し、航空隊に関しては『整備士養成学校』、主滑走路・補助滑走路を把握している」

「米軍の3度目の出撃は7月30日。藤沢飛行場に、戦闘機60機が終結しているという情報に基づき、空母から出撃し、駐機中の10機を爆撃した。さらにB29の本土攻撃に伴って1945(昭和20)年2月16日からの2日間、日本海近海に接近した米軍機動部隊により、藤沢航空隊もターゲットとなり、機銃やロケット弾が撃ち込まれた」とのこと。

また「1945(昭和20)年8月17日、厚木基地所属の302空零式戦闘機4機が藤沢飛行場の上を超低空で示威していた。戦争の継続を訴えるビラをまいていた。8月15日の玉音放送を前に厚木302は房総半島から侵入した米軍機と空中戦をし、1機が被弾し江の島沖に不時着した」とある。

厚木航空隊が終戦の日に各所で徹底抗戦を呼びかける活動をしたことについては、以前取材した。厚木飛行場の南に位置する藤沢飛行場にも訪れていたようだ。
 


裏側から見た司令官の避難所

 
さらに「藤沢は上陸地点として最高の戦略性を持っていて、日本空襲を終えて帰る米軍機が残弾処分のため撃ちまくり身軽になって海上に脱出するための『弾捨て場』であった。1945(昭和20)年5月B29の編隊が1時間余りで500機が通過。随伴したのはP51。あまりに低空で飛び回るために関谷の高圧線に触れて、柄沢の農家先に堕ちた。藤沢航空隊を襲ったP51の1機は対空機銃にやられた」という。

前出のP51による機銃掃射などは、「弾捨て場」の認識で行っていたものなのかもしれない。
 


1956(昭和31)年、ふん尿中間貯留槽工事の現場になった旧格納庫(『藤沢市文書館』より)

 
そして「そのころ敗戦色の濃い戦況の中、相模湾に面して首都防衛の一環の位置にある藤沢は、本土決戦の舞台に作り変えられた。米軍は藤沢を落とせば、北・東に向かうのも容易であった。日本軍は市内の小学校や丘陵地、納屋にまで兵を入れ、決戦に備えた。第53軍断兵団・独立第二旅団が守る相模湾防衛ライン。藤沢のすべての丘陵に穴をあけて本土決戦の準備に入った」

「戦争が終局に向かうころ、本土決戦に備えての温存策か、日本機の姿を見かけることが少なくなった。一方電波探知機を混迷させるために、夜間にアルミテープを空中にまき散らす米軍の空襲が続いた。しだいに米軍機が昼間来攻し、硫黄島から発進するP51まで見かけるようになった。そして8月15日に戦争は終わった」とある。

米軍は飛行場の位置関係だけではなく、施設の内容も把握していたようだ。電波探知機を妨害するアルミテープの散乱も通信施設だったことを知った上での攻撃であったのかもしれない。
 


日本軍の後には連合軍が司令部を設置した

 
戦後の米軍の進駐については「1945(昭和20)年8月15日、連合国に降伏し、戦争が終結した。2週間後の8月28日、アメリカ太平洋陸軍のテンチ大佐に率いられた連合国軍が厚木基地に到着、30日に連合国軍最高司令官ダグラスマッカーサーが厚木基地に到着。藤沢にも9月上旬にアメリカ太平洋陸軍第8軍(司令部アイケルバーガー中将司令部横浜)に所属する第11空挺師団が進駐した」

「第11空挺師団の内第188パラシュート歩兵連隊だった。9月2日藤沢海軍航空隊跡地接収。クラブハウス内に第12連合航空隊司令部を設置した。藤沢市でも市役所や市内の学校などで軍政部の係官が訪れ、民主化を指導した」とある。
 


戦争終結後約1ヶ月で米軍が藤沢飛行場を接収した

 
戦後の当地の様子については「藤沢航空隊では終戦処理が行われていた。通信機材は破壊し、小銃弾まで焼却、トラックは崖から落とし、兵器類はほとんど地中に埋めたが、わずかだけ集め、米軍に引き渡した。1945(昭和20)年8月27日アメリカ第三艦隊を主力とした連合国艦艇が江の島沖に集結。全ての砲口を藤沢に向けていた。それから二日後マッカーサーが厚木に降り立った」

「進駐してきた米軍は基地の周囲十メートルおきに『立ち入れば射殺する』という立て看板を立てた。大人も子どもも侵入者は撃たれたが、不法な侵入はやまなかった。日が経つにつれ、基地内と周辺の子どもたちとの交流が進み、子どもたちの侵入を黙認するようになった。靴磨きや掃除をして、お礼にたばこやチョコレートをもらった。そのうち大人たちから基地内での物の仕入れを頼まれ売るという商売も生まれた」とある。

藤沢飛行場には米軍が駐留したため、周辺住民にとって戦後の荒廃した時期を生き残るための仕事の機会を得た人もいるようだ。
 


クラブハウス内の米軍と交渉し土地を確保した聖園女学院や


関東航空計器

 
また米軍接収後は、日本航空協会発行の『航空年鑑』航空機製造会社一覧によると、1952(昭和27)年に藤沢飛行場接収解除が行われる。1953(昭和28)年には飛行場の名称を東洋航空藤沢飛行場とし、東洋航空工業が飛行場設置の許可申請を行い、同年3月に供用を開始した。その後、1964(昭和39)年に供用廃止。 廃止後の跡地の大部分は荏原製作所の藤沢事業所となった。

最後に「関東航空計器」の敷地内には「東洋航空工業株式会社」時代の建物があり、荏原製作所の敷地内には藤沢飛行場の施設が残っていると聞いたが、残念ながら取材は出来なかった。



取材を終えて



戦時中海軍は、相模湾に近い当地が米軍の戦略上重要な意味を持つことを知った上で、首都防衛のための基地として、優秀な予科練生を教育する飛行場を作ったようだ。ゴルフ場に適していた起伏に富んだ飛行場には不向きな土地に、無理やり作られた基地。終戦時の旧日本軍の必死の思いが感じられた。
 


ゴルフ場の土地は飛行場には不向きだったのかもしれない

 
 
-終わり-
 
 

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  • 善行在住で、荏原製作所近くの畑に飛行機の格納庫がありました。深くは知らなかったですが、グリーンハウスの意味などが分かり、点と線が結び付いた気がします。

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