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かつて鶴見にあった国内屈指の牡丹園とは?

かつて鶴見にあった国内屈指の牡丹園とは?

ココがキニナル!

鶴見区の北寺尾第二公園・北寺尾渋沢公園周辺は、昔、牡丹園だったそうですが、どこを調べても詳しい当時の状況がわかりません。どれほどの規模で、なぜ閉園したのかなど調べてください(海の狸さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

地元の郷土資料から詳細な情報を入手!そこは建築家・上遠喜三郎氏が開いた「上遠牡丹園」。大正末期の開園以来各地から多くの人々が訪れた名園だったが、昭和半ばに惜しまれつつ閉園し、今は住宅地に変わっている。

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ライター:結城靖博




まずは現地へ飛ぶ




現場主義の筆者としては、まずはキニナル投稿者「海の狸」さんが指摘する場所を訪ねることにした。
 

場所はココ


便宜上、「北寺尾第二公園」を目印にした。距離的な最寄り駅は菊名だが、鶴見駅から臨港バスを利用して北寺尾七丁目で降りると、徒歩数分だ。


バス通りの県道からこの道を入ると



まもなく道は上り坂となり、上り始めの左右にこんもりとした木々が


坂をはさんで右手が「北寺尾第二公園」、左手が「北寺尾渋沢公園」だ。


右手の北寺尾第二公園内



左手の北寺尾渋沢公園内


北寺尾渋沢公園前の坂道沿いに、何やら時代がかった立札を発見。


矢印の下に注目



近づいてみると、こう書かれていた


そう、この辺りはかつて、上遠喜三郎(かみとお・きさぶろう)氏が入手した畑や山林に、1924(大正13)年から1963(昭和38)年まで存在していた「上遠牡丹園」だった。
約1万坪の土地に約1万の牡丹が広がる「日本でも屈指の牡丹園」だったという。


今ではすっかり住宅地化した現場からは想像もつかないが


上の写真、北寺尾渋沢公園をはさんで左手の茶色い建物がマンション、右手奥の白い建物は社宅、社宅の向こうの坂の上には戸建ての民家が建ち並ぶ。



鶴見図書館で貴重な資料に出合う




公園前の立札には、閉園後に牡丹が「フラワーセンター大船植物園に移管」されたことや、上遠喜三郎氏が著名な建築家だったことが書かれているが、これだけでは情報不足だ。

いろいろ調べていくと、横浜市鶴見図書館にある郷土資料『郷土つるみ』第68号に、上遠牡丹園についての詳細な記事が掲載されていることが判明した。


さっそく鶴見駅に近い旧東海道沿いの鶴見図書館へ赴く


鶴見図書館で該当資料を手に取ると、なんと巻頭から10ページにも及んで「上遠牡丹園と旧上遠陸次邸」(晝間松之助氏執筆)と題する文章が掲載されていた。

ここから先は、主にこの資料にもとづいて、上遠牡丹園の歴史を辿っていこう。



上遠牡丹園はなぜ生まれたのか?




鶴見には、大正期に入ると花月園や三笠園、民衆花壇など遊園地や自然公園が次々に開園する。


「鶴見花月園 つつじ」(横浜市中央図書館所蔵)


上遠牡丹園も同時期に生まれ、人気を博した場所のひとつとも言えるが、若干他の行楽地とは趣きを異にする感がある。

1914(大正3)年に開園した花月園、1918(大正7)年頃開園した民衆花壇、1920(大正9)年に開園した三笠園と比べると、上遠牡丹園の開園は後続になる。

だが、昭和初期には閉園した民衆花壇や三笠園、あるいは「東洋一の遊園地」と謳われながら戦後は競輪場と化す花月園などに対して、上遠牡丹園は戦後も長く存続する。

その理由はなぜか?そこには、この花園をつくり、継続していった人々の牡丹への情熱が背景にあった。


満開の牡丹(イメージ画像)


公園前の立札にも書かれていたように、牡丹園を開園した上遠喜三郎氏は建築家だった。しかも帝国ホテルなど近代日本の代表的建築物を設計したイギリス人建築家・コンドルに弟子入りし、日吉の慶応大学や早稲田大学大隈講堂などの建築に携わったという。

その喜三郎氏は「百花の王」と讃えられた牡丹に魅了され、関東大震災の前年である1922(大正11)年、当地に広大な土地を購入し、震災の翌年から牡丹の栽培を始める。

遠く新潟の牡丹生産地まで苗木を求めるほど熱心に育成した結果、約1万坪の敷地は年々豊かになり、やがて藤、ツツジ、シャクナゲなど牡丹以外の花も咲き誇り、一年を通して多くの人々が訪れる植物園となった。



戦争に翻弄され戦後によみがえった牡丹園




ところが、人々の目を癒した色鮮やかな花園が、戦争によって失われる。
第二次世界大戦が激化していく1943(昭和18)年、食糧増産の国策のもと、園内の草木をすべて抜き取り、芋や大豆などを栽培する畑に切り替えるよう行政指導が下されたのだ。

温室さえ空襲の標的となるとの理由から撤去され、窓の鉄枠は金属供出されたという。


畑地(イメージ画像)


しかし、やがて終戦を迎え、戦後の混乱も少し落ち着き始めた1951(昭和26)年、牡丹園は復活の兆しを見せる。

花園の創始者・上遠喜三郎氏はすでに2年前に亡くなっていたが、喜三郎氏の三男・陸次氏の妻・たけ子さんが義父の遺志を継ぐ。戦後の物資不足の中で良質の苗木を求め新潟、奈良など東奔西走。その熱意が報われ、牡丹愛好家たちの理解と協力を得て、この年に1000本の苗木を植えなおすことに成功する。

そして翌1952(昭和27)年、植物園としてついに復活開園した。開園式には知事、市長、日本牡丹協会長など多くの名士が出席し大々的に執り行われたという。

一般公開は1954(昭和29)年からで、その後は地元の人々だけでなく、東京、横浜方面などから多くの牡丹愛好家や家族連れが訪れる行楽地としてにぎわう。

復活した牡丹園は、丘あり谷ありの起伏に富んだ地形約1万坪に、最盛期は約250種・6000株の色とりどりの牡丹が咲き乱れ、そのほか花菖蒲、シャクナゲ、チューリップ、パンジーの花壇、観葉植物やブーゲンビリアなどを栽培する温室もあった。

また、たけ子さんは日本牡丹協会の機関紙『牡丹』に毎号のように寄稿し、テレビ・ラジオなどにも出演。こうしたことも上遠牡丹園の知名度を上げることにつながったようだ。



牡丹園の閉園




そんな牡丹園だったが、1963(昭和38)年に惜しまれつつ閉園することになる。

閉園案内書の中でたけ子さんは、「一応所期の目的を達し得」たこと、さらに前年開設された神奈川県立フラワーセンター大船植物園に牡丹を移管し「上遠コレクション」として公開されることが決まったことを理由に挙げている。


現在は命名権制により「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称がつく同植物園


だが、閉園の背景には、時代の変化があるのではないだろうか。

もともと喜三郎氏の趣味が高じて生まれた牡丹園。遺志を継いで奮闘したたけ子さんだったが、時は高度経済成長期に入り、これだけの広大な敷地を維持・管理するのは容易ではなかっただろうと想像される。そのことは、当初無料だった入園料が、閉園の年の案内書では「大人40円、小人20円」となっていることからも察せられる。

とはいえ、その後もたけ子さんの牡丹への情熱は衰えず、のちに日本牡丹協会の理事長となり牡丹の普及活動に邁進していく。



上遠牡丹園の跡地へふたたび目を移す




上遠牡丹園の歴史をおおむね紹介したところで、冒頭に訪ねた牡丹園跡地の現場へ、ふたたび目を移そう。

バス通りの県道を入って北寺尾第二公園と北寺尾渋沢公園に向かう途中、坂道が始まる手前左手に、次のような建物がある。


住宅地の中でひときわ目に付く鉄筋コンクリートの建造物


これこそ、北寺尾渋沢公園前の立札にも「当時の雰囲気を伝え続けている」と記されていた上遠邸だ。

この建物は建築家だった上遠喜三郎氏が、結婚する三男の陸次・たけ子夫妻の新居として自ら設計したものだ。二人の結婚は牡丹園開園の翌年である1925(大正14)年。だが、喜三郎氏が同地を入手し牡丹の栽培を始めたのは1922(大正11)年。

一説によればその頃に建物は完成していたともみられている。ということは、1923(大正12)年の関東大震災の前ということになる。震災前に建てられた鉄筋コンクリートの住宅は、建築史的にもきわめて珍しいそうだ。

さらに重要なのは、この建物が牡丹園の跡地を知るうえで、格好のランドマークになっていることだ。

ここでは掲載できないが、図書館にあった1958(昭和33)年度版の『鶴見区明細地図』の中に、上遠牡丹園の表示があった。それをもとに1932(昭和7)年と現在の地図を時系列地形図で並べてみると、下の地図の赤い円内が、ざっくりではあるがかつて上遠牡丹園があった辺りと推察できる。


(『今昔マップon the web』より)


そして、右側の現在の地図をさらに拡大して、そこに上遠邸をマークしてみると、こうなる。


© OpenStreetMap contributors)


『郷土つるみ』の資料には、上遠邸は牡丹園内の北西部にあったと書かれている。上の地図でも、現在の上遠邸は赤い円内の北西に位置している。


北寺尾渋沢公園内から望む上遠邸。方角は北西方向だ


また、『郷土つるみ』には上遠牡丹園の鳥瞰図も載っているのだが、そこには上遠邸の少し南側に牡丹園の入り口が描かれている。
ちょうど、現在の上遠邸と北寺尾渋沢公園の間にある下の写真の道が、牡丹園の入り口辺りにあたることになる。


左手に上遠邸があり、右手の駐車場のさらに右隣りが北寺尾渋沢公園だ


地図と現場との位置関係がしだいに明らかになってきたところで、左手に北寺尾北沢公園、右手に北寺尾第二公園を見ながら、なだらかな坂を上ってみよう。


坂の途中はこんな感じ



もうすぐてっぺんに到着



ほぼ上りきった辺りの民家の前で住民に出会う



女性は牡丹園方向の坂下を眺めながら、懐かしげに取材に応じてくれた


年齢はお尋ねしなかったが、小学校3年生の時からこの地に住み、牡丹園があった頃を覚えていらっしゃった。
学校は反対側にあったのであまり坂下には降りて行かなかったそうだが、「この坂の下は牡丹園と、あとは林が広がるばかりで、民家なんてほとんどなかった」という。

「大体この辺りぐらいまでが牡丹園じゃなかったかしら」と女性に教えられたところまで少し戻って、そこからかつての牡丹園の周りをぐるりと巻いていくイメージで歩いてみる。


坂を上りきった辺りから坂下側を望む


上の写真の左手が公園方向へ下る道で、筆者は右手の平坦な道を進む。


右も左も住宅地だ


この道は傾斜地の縁に沿っている感じで、道の左側の家並みは一段下がっている。


しばらく行くと突き当たりとなり、左折して坂を下る



下ってまもなく、左手の角に幼稚園があった


幼稚園を横目にもうちょっと坂を下ると


右手にこんな農地も広がっている


かつて寺尾は傾斜面を利用した日当たりのいい畑を生かし、「寺尾二年子(にねんご)大根」など大根の産地として知られていた。昔はこんな風景が広々と見晴らせたのだろう。


だが農地を過ぎると、またもや右も左も住宅が並ぶ


このまま坂をまっすぐ下りきれば、北寺尾公民館の交差点に至る。すでに交差点は先のほうに見えている。

しかし、筆者は上の写真左手の細い路地へ折れる。この路地を入ると、左手に上遠邸があるからだ。


狭い路地は右に左にうねりながら続き



やがて左手に現れる緑色のフェンス。この向こうが上遠邸の裏手になる


そしてこの辺りから道はゆるやかに下り



まもなく路地の終点に至る


ここを左折し、ふたたび上遠邸の玄関前に戻る。


この道が今通ってきた路地



そして今度は上遠邸を左手に見て、牡丹園の旧入り口とおぼしき道へ入ってみた



道は北寺尾渋沢公園を巻くように右に屈折し、その先もなだらかな上り坂が続く



左手の茶色いマンションの先は、おしゃれな戸建てが建ち並ぶ区画



住宅前の左に折れる道の向こうに、さっき目にした幼稚園のカラフルな建物が見えた


今やすっかり閑静な住宅街という風情だが、地理的にみると、この辺りには確かにかつて牡丹園が広がっていたはずだ。
そう思うと、なんとも不思議な感覚に襲われる。

下のマップの赤いラインが、今回の「まぼろしの上遠牡丹園周遊コース」である。


© OpenStreetMap contributors)




取材を終えて




昔、そこにこんなところがあったらしいという場所を、歩く。その時、いったん目をつむり、頭の中でかき集めた情報を総動員する。そしてふたたび瞼を開き、目の前の景色に臨む。すると、イメージがブワッと膨らんでくる。
今回も、そんな体験を味わう取材だった。

かつて牡丹園のただ中にあったはずの公園で、今はご近所の若いお母さんたちが子供たちを遊ばせている。子供たちの元気な声が飛び交う。その光景を見つめているうちに、牡丹園があった頃の来園者のにぎわいが二重写しになってくる。


母子でにぎわう北寺尾渋沢公園


牡丹園がなくなった後、もしこの広い跡地が殺伐とした工場施設にでもなっていたら、ちょっと残念な気がする。だが、見たところここには子供たちを安心して遊ばせられる公園があり、公園を囲む一帯は実に落ち着いた住宅地だ。

喜三郎とたけ子、二代にわたって牡丹にこめた思いは、穏やかな空気の中に今なお残されているように感じられた。


―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/


参考資料

『郷土つるみ 68号』鶴見歴史の会発行(2010年5月刊)
『鶴見区史』鶴見区史編集委員会編集、鶴見区史刊行委員会発行(1982年3月刊)
『鶴見区明細地図 昭和33年度版』経済地図社発行(1958年4月刊)

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