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「まつもと」「おおが」「ししど」?ウィング上大岡にあるオブジェの地名はどこ?

「まつもと」「おおが」「ししど」?ウィング上大岡にあるオブジェの地名はどこ?

ココがキニナル!

ウィング上大岡にある地名オブジェのセレクト理由が知りたいです。ひぎりやまやさいど、などの地名はわかりますが、まつもとやおおが、ししどというのはどこなのでしょうか。(ぴよぴよぴーよぴよさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

ウィング上大岡の地名オブジェは「ゆめおおおか・アートプロジェクト」の作品のひとつだった。そしてオブジェに記された文字にはこの地域の現在と過去があり、オブジェの中には未来が託されていた。

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ライター:結城靖博




まずは実物を拝見





横浜市内で横浜駅に次ぐ規模を誇る駅のひとつ「上大岡」は、鎌倉街道に面して左から京急百貨店、商業施設ウィング上大岡と港南区民文化センターからなる中央棟、そして24階建てのオフィスタワーの3棟で構成されている。


1階にはビル内に設営されたバスターミナルがある。雨の日はありがたい


そんな巨大で複雑な上大岡駅ビルの中で、「ぴよぴよぴーよぴよ」さんがご指摘する「ウィング上大岡の地名オブジェ」とはいったいどこにあり、どんなものなのか、まずは見てみよう。


これが、それ


場所は中央棟の吹き抜けガーデンコート。


その天井からぶら下がっていた


どうやら、本を開いたような形をしている。


裏側から見ると、こうだ。本だとしたらこちらが表と言えるのか


いったいこれは何なのか?

――これはアートだ。作者はタイのアーティスト、ナウィン・ラワンチャイクン。作品名は「『わたし』の歴史 あなたのなかにある」。

作品に記された左右それぞれ11の地名は港南エリアの地名、そして表紙側にプリントされた写真は1961(昭和36)年当時の上大岡駅。さらに、このオブジェの内部には、近隣の子供たち300人の未来へのメッセージが入っているという。




上大岡駅周辺は現代アート・スポットだった!





1996(平成8)年、上大岡に駅ビル「ゆめおおおか」が開業された際、駅周辺に19点のパブリックアートが設置された。

地名オブジェは、その作品のひとつだ。

19点の作品は今でも誰でも日常的に鑑賞できる。なんてったってパブリックアートだから。しかも、作品を展示する作家の顔ぶれは錚々たるものだ。


地名オブジェそばのセンターコートの吹き抜けには奈良美智(なら・よしとも)の作品



中央棟4階エレベーターロビーには、村上隆(むらかみ・たかし)の代名詞「DOB君」



中央棟の上、南ウィングの屋上庭園全体がアーティスティックだが



そこには柱に哲学的な文字が記された平川典俊(ひらかわ・のりとし)の作品があったり



階段の蹴上がり面にさりげなく刻まれた長澤伸穂(ながさわ・のぶほ)の作品があったり


さらに作品は駅ビル内だけではなく、周辺にも置かれている。


その中でもっとも目立つのが、上大岡駅を象徴するこの巨大な青いオブジェだろう


これは吉水浩(よしみず・ひろし)の作品「Bloom」だ。


北ウィング前の歩道にあるオブジェも同氏の作品「Good Luck」



また、駅ビル右端には3つの銀行が並んでいるが


その銀行の中にも作品がある。


横浜銀行のATMコーナーの壁面にはこんなカワイイ作品が


木津文哉(きづ・ふみや)の「子ども達は時を駆け抜ける」だ。

その右隣りの三菱信託銀行ATMコーナーの天井にも次のような作品が。


須田悦弘(すだ・よしひろ)「花 過ぎるものとそうでないものと」


天井にある作品なので、銀行の利用者からはなかなか気づかれにくい。




本の中の地名には深い意味があった





さて、そんなアートプロジェクトの一環として存在する地名オブジェを、もう少し詳しく見ていこう。


作品見開きページ側の接写


左ページには「かみおおおか さいど おおくぼ ひの こうなん ささげ せりがや のば ながや ひぎりだい まるやまだい」。

右ページには「おうが ししど くぼ よしはら ぞうしき せき みやがや ながの かない みやした」と書かれている。

実は、計22の地名には、左右で明確な違いがある。左ページの地名はすべて町名が現存し、右ページの地名は町名としてはすでに消えている地名なのだ。



左ページの町名を地図で確認





では左ページの町名が実際どこに存在するか、上から順に地図で確かめてみよう。

一番バッターの「かみおおおか=上大岡」は、町名としては東と西の2つに分かれる。

こちらが上大岡東1~3丁目のエリア


駅の東側は住宅地が広がり、東端は久良岐(くらき)公園の一部にかかっている。
 

いっぽうこちらが上大岡西1~3丁目


上大岡西は横浜市内有数の繁華街・上大岡駅周辺と鎌倉街道を含む商業地域だ。

二番目の「さいど」は、漢字で書くと「最戸」。
 

上大岡駅の北西に広がり1~2丁目からなる


続く「おおくぼ=大久保」は、上大岡西の西側と最戸の南側に接する。
 

1~3丁目が横(東西)に長く広がっている


「ひの」の名がつく町名は、現在3つ存在する。
 

ひとつは日野1~9丁目

 

そして日野の南東に位置する日野中央1~3丁目

 

さらに南西に隣接する日野南1~7丁目


この3町を合わせると、南北に長い大きなエリアになる。その縦の流れに沿うように鎌倉街道が通り交通量の多い場所もあるが、大半は住宅地だ。

続く「こうなん」と名のつく町も、やはり3つ存在する。
 

まずは港南1~6丁目


面白いことに町が2つのエリアに分離している。北側が港南1~3丁目。南側が港南4~6丁目だ。
 

そして2つのエリアにはさまれて港南中央通(ちゅうおうどおり)がある


港南中央通は丁番を持たない単独町名だ。小さいエリアながら地下鉄・港南中央駅周辺に区役所・警察署・消防署などがあり、区内の重要地区と言える。
 

3つ目は港南台1~9丁目


港南台は先行する2つの「こうなん」からは離れている。港南と港南台の間に日野中央がまたがっている格好だ。

1960年代に開発されたニュータウンである港南台には多くの団地があり、JR根岸線の港南台駅は区内で上大岡に次ぐ商業地域だ。
 

「ささげ」は港南の南東に隣接する笹下1~7丁目を指す


中央を笹下川と笹下釜利谷(かまりや)道路が縦断するこの町は、古くからひらけた土地で、戦国時代に領主・間宮(まみや)氏が笹下城を築城した。

その下の「せりがや」と名のつく町名は2つ。
 

区内北端に位置する芹が谷1~5丁目

 

そしてその東に隣接する芹が谷東


芹が谷東も港南中央通と同じく丁番なしの単独町名だ。ちなみに「芹」は「崖」のことで、つまり「崖下の谷」という意味。

続く「のば」も丁番がないが、これほど広範囲な単独町名も珍しいだろう。
 

「のば」すなわち野庭町(のばちょう)のこと


町はほぼ全域が1970年代の前半に生まれた巨大な公団・野庭団地で形成されている。

お次の「ながや」、この名が付けられた町名は4つと最多だ。
 

ひとつは上永谷1~6丁目

 

その東側に東永谷1~3丁目

 

さらに上永谷の北西に下永谷1~6丁目


以上の3町は隣接し合い塊となっているが、もうひとつの残る上永谷町(かみながやちょう)は不思議だ。
 

上永谷1~6丁目から離れて飛び地のように存在する丁番なしの上永谷町


間を遮るのは丸山台。なぜこういうことになっているのだろう?

実は「上永谷町」のほうが「上永谷」より古い。「上永谷」も「丸山台」も1979(昭和54)年の住居表示施行にともない新設された町で、それぞれその一部がもともと「上永谷町」だった。おそらくこの時、すでにあった上永谷町の一部が飛び地の格好で「残った」のではないだろうか。

続く「ひぎりやま」は、漢字で書くと「日限山」。
 

日限山1~4丁目からなる


名前は1丁目にある日限地蔵尊にちなむ。加えて丘陵地なので「山」が付いたのか。江戸時代にはこの地域は仙境とされ、「横浜の高野山」と呼ばれていたそうだ。

左ページ最後に記された「まるやまだい」は、前記した丸山台1~4丁目のこと。
 

1丁目に地下鉄・上永谷駅があるのも、上永谷町から分離独立したからだろう


こうして地図を見ながらひとつの区を町名ごとに分解していくのも、まるで逆ジグソーパズルをやっているようでなかなか面白い。

終わってみると地名オブジェの左ページ11の地名が、現在の港南区のすべての町名を網羅していることがわかった。

やれやれ、やっと左ページが終わった。だが、この取材のメインイベントはこの先にある。肝心なのは、すでに町名から消えているオブジェ右ページの地名についての調査だ。




町名から消えた11の地名の謎を解く





などと書くと大変な作業のようだが、右ページの地名は、確かに町名からはなくなっているが、いまだ各所にその痕跡を残している。というわけで、右ページの地名の謎も、上から順に明かしていこう。読書の便を図って上から番号を振ってまとめることにする。



①「おおが」の謎





町名としては区内のどこにもないが、上大岡駅の近くに「大賀の郷(おおがのさと)」と呼ばれる場所があることがわかった。


© OpenStreetMap contributors)


ここは地域の町おこしの一環として2011(平成23)年から取り組みが始まった上大岡の新名所だ。夏ともなれば、3万本のひまわりで覆われたひまわり畑になる。


が、取材時は真冬。当たり前だがひまわり畑には何もなかった


それは仕方がないけれど、周辺にここが「大賀の郷」であることを示す何か看板らしきものはないかと探したが、


それらしきものも見つからなかった


不安になって、通りすがりの高校生に「ここって、夏になるとひまわりがたくさん咲くところ?」と尋ねると「はい!」と元気に答えてくれたので、場所に間違いはなさそうだ。


きっと夏になれば、荒涼とした土地がこんな景色になるのだろう(イメージ写真)


上の写真は筆者が昔撮った、まったく別の場所のひまわり畑。悪しからず。

それにしても、なぜ「大賀の郷」かというと、上大岡の一帯がかつて「武蔵国久良岐郡大賀郷」と称されていたからだ。「大岡」も「大賀」が転訛したものと言われている。



②「まつもと」の謎




もちろんここも、町名としてはすでにどこにも存在しない。


でも、地名としてはこんなふうにちょこっと残っている


上は、笹下松本公園。上大岡駅と港南中央駅の間にある鎌倉街道裏手の小さな公園だ。


© OpenStreetMap contributors)


だが、なぜ「笹下」と「松本」がくっつくのか?それはこの地域に、かつて「笹下城」と「松本城」があったからだ。

「松本城」があったとされる場所もわかっている。


そこは、ここ


港南5丁目に位置する写真右手の笹下中学校と左手の天照大神宮(てんしょうだいじんぐう)周辺のエリアだ。


© OpenStreetMap contributors)



天照大神宮はこの石段を上った先にある



石段を上った境内には、立派な社殿が構えていた


この神社は創立年代こそはっきりしないが、言い伝えでは16世紀末の天正年代以前とされ、かつては笹下郷の総社だった。

また周辺は昔、松本村と称され、この高台には前記した間宮氏が築いた広大な山城(やまじろ)・笹下城の出城(でじろ)として「松本城」が建っていたという。出城とはいわば城塞の監視砦のようなものだが、ここが地理的に最高地点だったから置かれたのだろう。

とはいえ、今は神社の境内にもその周辺にも、かつて松本城があったことを示すものは何も残ってない。


ただ境内に佇む幾本もの古木だけが、歴史の深さを伝えていた





③「ししど」の謎





この地名は、すでに現存町名で紹介した「最戸」の昔の読み名だった。「宍戸」または「鹿戸」と表記する。

なお「さいど」の由来は「道祖神」との説もある。道祖神を祀った場所をかつて「道祖土(さいど)」と呼び、現在でも埼玉県に同じ名の町が存在する。
 

さいたま市緑区にある道祖土


道祖神の道祖が「さい」と読まれた理由は、道祖神が村の境界(際=さい)に祀られ村外からもたらされる疫病や悪霊を断つためのものだったからだ。その道祖神が置かれた土地(土=ど)だから「さいど」。

ただ、肝心な「ししど=宍戸、鹿戸」が何に由来するのかは、不明だ。ちなみに「宍」は「肉」の意味なので、「鹿」とも通じるのだが…。




④「くぼ」の謎





この謎解きは、わりとシンプルだ。

現存町名の大久保が、かつて久良岐郡久保村だったのだ。明治中頃の市町村制施行で大岡川村大字(おおあざ)久保になるが、1927(昭和2)年に横浜市に編入される際、「字」を抜いて「大久保町」と名付けられた。

その理由は、すでに市内に「久保町」という町名があったからだ。

大久保は上大岡駅の西を流れる大岡川を渡った先に東西に広がるが、その川にかかる橋の名「久保橋」に過去の痕跡が残る。また1丁目から3丁目へと西に向かって歩いていくと長い上り坂がある、この坂の名も「久保坂」と呼ばれる。坂の途中にあるバス停名がそのことを証してくれる。


© OpenStreetMap contributors)



長い長い坂の途中にあるバス停・久保坂



バス停のポールに近づいて見ると、旧地名の痕跡が消え入りそうなのがちょっと残念


ところで大久保には、大正終わり頃から1958(昭和33)年の売春防止法が施行されるまでの間、花街(はなまち)があった。今の住宅街からは想像しがたいが、最盛期には芸妓屋・待合・料理屋などが三十数軒建ち並んでいたという。




⑤「よしはら」の謎





「よしはら」は現在の日野地域の一部をなしていた村名「吉原村」のことだ。旧名の痕跡は今もけっこう残っている。


鎌倉街道には交差点「吉原」があり



交差点そばの街道沿いのバス停も「吉原」



また交差点から西に入る脇道の日野川にかかる橋も「吉原橋」で



橋を渡って左折した先をしばらく歩いていくと、小高い土地に「吉原小学校」もある



© OpenStreetMap contributors)




⑥「ぞうしき」の謎





この地名も現町名・笹下の一部をなしていた旧村名「雑色村」のことだが、「雑色」の2文字は古代につながる重要な場所と関連する。


そこは笹下5丁目の丘陵地に位置する笹下中央公園の中にある



いや、正確に言うと公園の「下」だ


広大な公園内の敷地がなぜガラ~ンとしているかというと、この地面の下に縄文時代初期(約8000年前)から古墳時代にかけての遺跡が埋まっているからだった。

公園の北側は環状2号線と接している。


写真右手が公園のある高台、左手が環状2号線


環状2号線の建設に当たって、この尾根筋を1995(平成7)年まで3回にわたって発掘調査したところ、竪穴住居1軒、動物を捕獲するための落とし穴26基、石組み炉1基のほか、多くの土器や石斧なども発見された。

一帯は約2ヘクタールにおよぶ大規模複合遺跡として「雑色杉本(ぞうしきすぎもと)遺跡」に指定された。

とはいえ遺跡は地中にあるので、実際に現地へ足を運んでみても…


公園の隅に建つこの説明板が事跡を教えてくれるのみだが


また、発掘調査された北側部分は削り落とされ環状2号線の道路と化してしまった。そして残された公園付近は、説明板によれば遺跡の中心部分で、住居跡も確認されていることから、古代の集落が広がっていたことが想定されるという。

なお、「雑色」は正式な町名からはなくなったが、町内会名として今も残っている。


こちらは公園の西側、少し離れた場所に建つ「雑色町内会館」



いっぽう環状2号線をはさんで北側には「雑色」という名のバス停もある



© OpenStreetMap contributors)





⑦「せき」の謎





「せき」は「関」と書く。この1文字も2つの意味で歴史に深く関わる。

まずは旧村名としての「関」から。


現在の笹下2丁目にバス停「関」がある


バス停が面する道路は笹下釜利谷(かまりや)道路だ。この道は、以前古道シリーズで紹介した江戸時代の重要な街道のひとつ、金沢道(かねさわみち) の一部である。

付近はかつて「関村」と呼ばれていたが、ちょうど東海道・保土ケ谷宿と金沢道の終点・金沢との中間地点だったため、多くの旅人がここを休憩場所とし、大いに村は賑わった。

さらに明治に入ると久良岐郡の郡役場が関に置かれ、郡の中心地として栄える。ところが、明治中頃に横須賀線が開通すると金沢道の人の往来が急速に減り、関の繁栄も衰えていったという。

だが、笹下釜利谷道路には鎌倉街道との交差点「関ノ下」をはじめ、バス停「関の下」「関の上」さらにバス停「関」近くの笹下川(大岡川)に「関の橋」がかかっている。その橋の西側には「関坂」という坂もあり、なにかと「関」の名が付く場所が多い。そこに往時の村の繁栄が偲ばれる気がする。


© OpenStreetMap contributors)


いっぽう、この関村とは別に、もうひとつ「関」つながりの歴史ポイントがある。そこはバス停・関から直線距離にして約2.5km西側に位置する、広大な単独町名・野庭町の大半を占める野庭団地一帯だ。


野庭団地。あまりに広いので、1枚の写真ではほんの一部しか捉えきれない


野庭団地に秘められた歴史は、関村の栄枯盛衰よりもはるか昔の中世にさかのぼる。

鎌倉幕府の軍事を担った侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう=長官の地位)だった和田義盛(わだ・よしもり)が、現在野庭団地がある高台一帯に関城(「せきじょう」または「せきしろ」と読む)を築く。そして1213(建保元)年、その城に和田一族が立てこもり幕府軍の北条氏を迎え討ち、20日間の激しい戦いの末、壮絶な最期を遂げた…と伝えられている。

「野庭の関城」伝説は、この地に長く言い伝えられている。がしかし、実はここに関城があったことを実証する資料は存在しない。とはいえ伝承によれば、現在の野庭中央公園のもっとも高みに位置する辺りに、城の本曲輪(ほんくるわ=司令本部を配した城の中枢部)があったとか。


野庭中央公園内の一番高いところというと、この辺かな?



いずれにせよ公園内には、関城跡であることを伝える痕跡は何もない



© OpenStreetMap contributors)





⑧「みやがや」⑩「かない」⑪「みやした」の謎





「せき」に続く「みやがや」から下は、「ながの」以外エリアも近いのでまとめて紹介しよう。

まず「みやがや」だが、「横浜」「みやがや」でネット検索すると、真っ先に出てくるのは西区に今も現存する町名「宮ケ谷」だ。

が、港南区エリアにもかつて「宮ケ谷」という村があった。そこは現在の日野中央の一部をなしていた。しかしこの辺りが宮ケ谷であったという痕跡を残す場所は、調べたかぎりここしかない。


港南台北公園内の集会所「みやがや」



集会所の全容はこんな感じ



公園入り口にもしっかり集会所「みやがや」の案内板が設置されていた


「かない」もまた、日野中央のかつて一部をなしていた旧村名だ。


現在は鎌倉街道沿いに交差点名が残り



交差点のすぐそばには、やっぱり同名のバス停も


さらにもう少し調べてみると、金井交差点から少し離れた場所にこんな場所を発見。


「かない幼稚園」だ


オブジェ右ページ一番下の「みやした」は、その痕跡を見つけるのに少々苦労した。ようやく発見したのが、下の写真の場所。


日野中央2丁目にある可愛らしい路地裏の公園「日野宮下公園」


すぐそばを横浜横須賀道路の高架が通り車がビュンビュン走っているのだが、この公園は静かなものだ。宮下も現在の日野中央の一部だった村で、「宮ノ下村」とも表記されたようだ。
 


© OpenStreetMap contributors)




⑨「ながの」の謎





最後に残ったのは地名オブジェ右ページ下から3番目の「ながの」。ここをトリにしたのは特別の理由からではなく、単に上記3ヶ所と地理的に離れていて、一緒には地図で示しにくいからだ。

「ながの」は「永野」と書き、現存町名の上永谷に永野小学校や永野幼稚園が存在する。

この「永野」も旧村名なのだが、これまで紹介してきたほかの村のように「古くから永野村と呼ばれていた」というわけでは、実はない。本来古くからあったのは鎌倉郡の「永谷村」だ。それが「明治の大合併」で永谷村の「永」と上野庭村の「野」が合体して「永野村」になった。そしてそれが、昭和初期の横浜市編入の際に「上永谷町」に変わる。

さらに細かく町名変遷史をたどると訳がわからなくなりそうなので、この辺に留め置く。とにもかくにも明治期に生まれた旧永野村の2つの痕跡を見ておこう。


環状2号線のすぐそばにある永野小学校



校舎最上階に「永野村郷土資料館」の表示があった。素晴らしい!



そして環状2号線をはさんで永野小学校のはす向かいに「永野幼稚園」がある



© OpenStreetMap contributors)





取材を終えて





ウィング上大岡の地名オブジェの謎解き後半は、港南区内の歴史の痕跡探しの旅と化した感がある。おそらくオブジェの作者は、左ページの現存町名と数をそろえるべく右ページも11の項目を選んだのだろう。そのため、けっこう探索ポイントは多くなった。

その分、駆け足気味になり、なかなか一つひとつを丁寧に紹介することができなかったのは心残りだ。ほんとうは城跡の歴史など、もっと深く掘り下げればそれだけで一本の記事が成立するだろうと思ったが…。それはまた、別の機会にゆずるとしよう。

ところで、取材の過程で気づいたのは、町名としては失われた地名が、交差点やバス停、あるいは小学校名などとして残されていることが多いことだ。

みなさんも、自分がよく利用するバスの路線に「なぜこんな名前がついているのかな?」と不思議に思うバス停名などないだろうか。調べてみると、そこから意外な歴史秘話が浮かび上がってくるかもしれない。


―終わり―



参考資料

『ゆめおおおか・アートプロジェクト・ガイド・マップ』ゆめおおおか・アートプロジェクト実行委員会企画・発行(1997年3月刊)
『こうなん 道ばたの風土記』港南の歴史研究会編集・発行(1986年2月刊)
『こうなん歴史散策』馬場久雄著、港南歴史協議会発行(2010年9月刊)
『こうなんの歴史アルバム』港南歴史協議会企画・編集・発行(2010年3月刊)
『街づくりの歴史物語』港南歴史協議会企画・編集・発行(2012年7月刊)
『親子で読む ふるさと港南の歴史』港南歴史協議会企画・編集・発行(2020年11月刊)
『横浜の町名』横浜市市民局総務部住居表示課編集・発行(1996年12月刊)

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  • 最近、「はまれぽ」らしい「キニナル」を体当たり取材する記事が戻ってきましたね。オブジェの中が、今は空になっているみたいです。できればそこについても調べてほしいな。

  • 無くなった町名だったとは知りませんでした。無くなったものを調べるのは大変なのにここまでよく調べてくれました!力作ですね!

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