元横浜ベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-下窪陽介さん-
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元横浜ベイスターズ選手、下窪陽介さんのセカンドキャリアとは?(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
2010(平成22)年に退団後、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町の実家が営む「下窪勲製茶」のPR・販売員として全国の催事場を巡り明るく接客をしている
ライター:山口 愛愛
プロ野球2軍の最終戦。ふだん控えの選手がスタメンに名を連ねたのなら、ほとんどの場合、それは最後の花道――つまりは戦力外通告を意味する。今回の主役の下窪陽介(しもくぼ・ようすけ)さんは2010(平成22)年のジャイアンツ球場で行われた最終戦のベンチで「自分もこうなったら大変だ」と複雑な心境でスタメンのチームメイトを見守っていた。
「代打」で呼ばれたのは9回表ツーアウトの場面だ。相対する読売ジャイアンツのピッチャー、「ロメロとは相性悪いのになぁ」と思いながら準備をする。次のバッターはすでに退団が決まっていた佐伯貴弘(さえき・たかひろ)選手。「佐伯に回してくれ!」ベテラン選手のラストゲームを見届けようとファンが詰めかけていた。「なんとかして佐伯さんに回さないと」。必死に粘り、フォアボールでつないだ。
「まさか、これがプロ野球最後の打席になるなんて」。この2日後に待っていたのは突然の戦力外通告だった。あれから8年。下窪さんは意外な場所にいた。
元横浜ベイスターズ外野手、現在39才の下窪陽介さん
下窪さんの現在の仕事ぶりと当時の心境を確かめるために向かったのは、玉川タカシマヤの食品売り場。九州物産展に出展している「下窪勲製茶」のワゴンの前でご婦人と談笑しながらお茶を淹れていた。「下窪勲製茶」の販売・PRが下窪さんの仕事だ。「うちはブレンドのお茶はほとんどなく、1つの品種の茶葉をそのまま使っているので茶葉本来の旨みが分かると思うんですよぉ」。その表情はとても柔らかい。
ご婦人は1本1000円以上するお茶を満足そうに10本も購入した。お客さんに、この店員さんが1996(平成8)年の全国選抜高校野球大会の優勝ピッチャーで元プロ野球選手であることを伝えたらきっと驚くだろう。商品に自信があるからこそ、過去の肩書は必要ない。「飲んでもらえれば味に自信はあるので、試飲まで持っていくのが勝負」と下窪さん。
鹿児島県知覧地方のお茶、知覧茶のの中でも質が高く人気を集めている
鹿児島県南九州市頴娃(えい)町の実家の農園で作られる茶葉は土作りからこだわり、なかでも「やぶきた」は農林水産大臣賞を受賞した一級品だ。1日の客足は限られるので「何本買っていただけるかトークが大事。極度の人見知りで、最初はお客さんに『こんにちは』さえ言えなかったんですけどね」と笑う。
新茶のシーズンは鹿児島に茶葉を摘みに戻り、また全国の催事場を飛び回る。華やかなプロ野球の世界からの転身。下窪さんにここに至るまでの波乱万丈な道のりを振り返ってもらった。
「勲(いさお)」はやぶきたの最高級茶葉を使い豊かな滋味と甘みが漂う
実は剥離骨折していた甲子園舞台裏を初告白
1979(昭和54)年に鹿児島県揖宿郡(いぶすきぐん、現南九州市)頴娃町で生まれた下窪さん。
地元に少年野球チームがなかったため剣道をやっていたが、兄が中学から野球部に入った影響で頴娃中学校の軟式野球部に入部。野球に興味がなく「ルールが分からないから、ピッチャーしかできなかった(笑)」。コントロールが悪かったが、チームメイトに「笑わずにホームに投げられるようになったらストライクが入るようになるよ」といわれ、友達がふざける横で集中して投げられるようになると「本当にコントロールがよくなった」と笑う。才能が開花し、チームも力をつけ鹿児島県大会で優勝するまでに成長。
高校は、鹿児島県大会で優勝し兄も所属していた地元の頴娃高校に進学するつもりだったが、スカウトにきた鹿児島実業高校の久保克之(くぼ・かつゆき)監督の熱意に負け、名門校に特待生として入学した。
複数の高校からスカウトを受けたが、鹿児島実業高校に進学(鹿児島実業高校より)
高校に入ると100人の新入部員が50人に減るという地獄の基礎トレーニングが続く。先輩の1年生指導係から選ばれし者だけがグラウンドに入り、監督に認められるとボールを握れるという。この厳しい環境の中で、下窪さんは1年生のときから背番号をもらいピッチング練習に明け暮れた。
それでも「先輩たちはすごいな、俺が野球やっていいのかな」という感覚で、野球に対しての熱い気持ちはまだ湧いていなかった。
3年生になり、新しいピッチングコーチが入り転機を迎える。捻挫したこともあり、投球練習を控え下半身を鍛えることに専念。しばらくして再び投げ込むとキレのある球質に変化を遂げていた。ピッチングが大きく変わり、高校野球九州大会の1回戦など、公式戦でノーヒットノーランを5回も成し遂げる。
3年時の鹿児島県大会での防御率は驚異の0.27。全国の歴代2位の数字をひっさげ全国選抜高校野球大会に臨んだ。唯一互角の力だった滝川第二高校と2回戦で当たるが内野安打のみの2安打完封勝利を収める。これで自信を持って勝ち上がり、決勝戦も智辯和歌山を6対3で破り初優勝。
「優勝したときのことは、うれしすぎてよく覚えていないんですよ。野球をやってきたなかで一番うれしかった」と声を弾ませるが、「でも、なんだ簡単じゃん。勝って当たり前だよね」という奢りの気持ちもどこかにあったと本音を明かす。
初めて鹿児島県に深紅の優勝旗をもたらした(フリー画像より)
実力でスターダムにのし上がり、春夏連覇の期待も高まったが、下窪さんの悲劇は夏の甲子園大会直前から始まった。鹿児島県大会の決勝は18対0の快勝だったが、試合後から肩に痛みが走り、腕が全く上がらない。複数の病院で診察を受けたが、診断は異常なし。
ピッチング練習をせずに甲子園に入り、「場所が変わって甲子園に来れば投げられるかと思ったけど、全く投げられない。これはとんでもないことになったと焦った」。
何人ものトレーナーがマッサージや鍼治療をし、痛み止めの薬も飲んだが肩は動かない。試合の直前に注射を打つと、痛みは残るもののなんとか腕が上がった。
投げるしかない。痛みを抱えたまま誤魔化しながら投げ、どうにか3回戦まで突破。試合が終わった後に必ず医師の検査が入るが「痛いなんて言える状況じゃない」と周囲の期待とも戦っていた。
甲子園では痛みを隠し全試合先発でマウンドに立ち続けた(フリー画像より)
準々決勝の前日、意を決し「もう投げられません」とコーチに直訴すると、コーチは円陣を組むチームメイトに「どう思う?」と問い掛けた。「申し訳ないけど、ここまできて下窪が投げないで負けるのは納得いきません」という返答で「じゃぁ投げさせてもらいます、というしかなかった・・・」と下窪さんは小さく笑う。
「そう答えたときから、どこか負ける雰囲気があったというか、もう野球じゃなくなっていたんですよね」。その言葉の通り、ベスト4をかけた松山商業戦はホームランを許し5対2で敗れた。試合後、病院で精密検査をすると剥離骨折していたという。
「これ、初めて公に話しました。鹿実のチームメイトさえほとんど知らない話なんですよ。最近、監督も暴露したんで、もう言って大丈夫です」と悪戯っぽく笑う。壮絶な高校生活の話を聞き胸が痛んだが、その笑いにどこか救われた気がした。
今は当時のことを振り返る余裕があると下窪さん