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横浜に深い繋がり!新一万円札・渋沢栄一とその孫・渋沢敬三

横浜に深い繋がり!新一万円札・渋沢栄一とその孫・渋沢敬三

ココがキニナル!

新一万円札に決まった渋沢栄一は横浜を焼き討ちにしようと計画した事があるって本当?(ライター・ハヤタのキニナル)

はまれぽ調査結果!

渋沢栄一は横浜の異人館の焼き討ちを計画したこともあるが、後には横浜の経済発展に関わった。孫の敬三は民俗学研究に尽力。神奈川大学の研究所で引き継がれている

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ライター:ハヤタミチヨ

あれは1ヶ月ほど前。新一万円札は渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)に決定、とのニュースに日本中が沸き立った。
 
なにっ!?渋沢栄一?
横浜では不穏な話でも知られる人物ではないか?
 
 
 
渋沢栄一ってどんな人?
 


国立国会図書館WEBサイト 近代日本人の肖像より

 
渋沢栄一は、江戸時代の1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年に亡くなった。なんと、医療も整っていない時代に91歳まで長生きをした人でもある。生まれは現在の埼玉県深谷市にある村の農家。といっても栄一の家は米や野菜を作るだけでなく、染料の一種である藍玉(あいだま)の製造・販売や養蚕も行っていた。一方で、10才年上の従兄である尾高新五郎(おだか・しんごろう)が開く私塾に通い、勉学にも励んだ。
 
そんな栄一の業績として一番知られているのは「日本で最初に銀行を作った人」ということだろう。さらに、多くの会社に関わり、明治維新後の日本の経済発展に尽くした功績で「日本資本主義の父」とも呼ばれる。その一方で、医療、社会福祉、教育機関の設立や支援を行い、民間外交ともいうべき海外交流も積極的に行っていた。
 
経済だけでなく、幅広い方面に関わった渋沢栄一。そんな栄一が横浜と関わったできごとをいくつか見ていこう。

 
 
 
横浜居留地焼き討ち計画
 


当時の外国人居留地は山下町にあった

 
最初に書いた渋沢栄一の「横浜での不穏な話」・・・それは栄一が若き青年だったときのこと。
時代は幕末、黒船来航から始まる開国ショックで、日本の将来を考える若者たちの多くが尊王攘夷、つまり幕府を倒して天皇中心の社会を作り外国人を追い出そう、という思想に湧いていた。栄一が通った私塾の師である尾高新五郎も尊王攘夷論を説いており、若い栄一たちもそれに感銘を受ける。本気で社会を変えたいと思い立った栄一たちは、師の新五郎や、親しい者たちとひそかに計画をたて始めた。それは
「高崎城(たかさきじょう:群馬県)を乗っ取り、そこから鎌倉街道を下って味方を集めながら横浜へ攻め上り、居留地を焼き払って異国人を斬り殺す!」
栄一たちは、その準備のために江戸へ出て、武器や同志も集め、故郷に帰ってからも計画を進めていた。
 
そして、もうすぐ決行という最後の会議。しばらく京にいて帰ってきたばかりの、従弟で師の弟でもある尾高長七郎(おだか・ちょうしちろう)が、栄一たちの計画を無謀だと大反対したのだ。長七郎は京にいる間、攘夷派の先導者たちが次々と追い込まれていく様子を直に見て、その実感からの反対だった。栄一たちは驚き、激しく議論する。その結果、計画は中止となった。栄一は晩年の談話で、長七郎が自分たちの命を救ってくれたようなものだと、とても感謝している。
 
だが、この計画のために活動しているうちに、栄一たちは幕府の役人から目をつけられ、身の危険が迫る事態になってしまう。そこで、江戸にいる時に偶然知り合った一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ:将軍となる徳川家の分家。一橋家とも呼ぶ)の重臣を頼って京へ行き、そのまま一橋家の家来となった。当時の一橋家当主である慶喜(よしのぶ)は、その後、江戸幕府最後の将軍となる。栄一はかつて討とうとした幕府に仕える身となった。
 


徳川慶喜(国立国会図書館デジタルライブラリーより)

 
栄一は『徳川慶喜公伝』も編さんし、上の写真も掲載されている
。 
やがて栄一は幕府からフランスへ派遣される大使に随行する。フランスでは街や人はもちろん、株式市場や銀行など、当時はまだ日本にない初めて見聞きするものばかりだった。この経験が、後の栄一に大きな影響を与えることになる。ちなみに、このフランス行きの船は横浜から出発した。
 
 
 
実業家としての渋沢栄一と横浜
 


山下公園の氷川丸

 
公益財団法人渋沢栄一記念財団のサイトによれば、栄一は「生涯に約500の企業の育成に係わり、同時に約600の社会公共事業や民間外交にも尽力」とある。その団体名のリストが検索できるようになっており、試しに「横浜」のついた団体名を検索すると、27もの会社や団体名がリストアップされる。

https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/names/index?keywords=%E6%A8%AA%E6%B5%9C&duration_from=&duration_to=&between_from=&between_to=
 
その中でも、栄一が発起人と創立委員となった「横浜船渠会社(横浜船渠株式会社)」は、船渠(ドック)で船の建造や修繕を行う会社で、現在の山下公園にある氷川丸はこの会社で建造した船だ!
今はドックの一部は「日本丸メモリアルパーク」になっているが、みなとみらいのシンボルともいえる2つのスポットに、栄一が関わっているというのがすごい。港街として発展してきた横浜の歴史と経済も、渋沢栄一なしに語ることはできないのだ。
 
・・・若かりし頃は焼き討ちにしようとまで考えている横浜に、将来自分がここまで名を残すとは考えていたのだろうか?
 
 
 
青い目の人形
 


横浜人形の家そばにある青い目の人形像

 
1927(昭和2)年1月。アメリカから横浜や神戸などの港へ、合わせて1万体以上もの人形たちが、いくつもの船に分乗してやってきた。人形たちは、当時流行していた童謡になぞらえて「青い目の人形」と呼ばれ、各地で歓迎式典も開かれて迎えられる。この人形のお返しに、日本からは「答礼人形」として着物を着た日本人形が送られた。このアメリカと日本の交流を日本で呼びかけたのが、渋沢栄一である。
 
栄一は、民間外交にも積極的に取り組み、さまざまな国の人々と交流している。だが、当時の日本とアメリカは政治的な緊張関係にあり、険悪な空気が深まっていた。アメリカでこの事態を憂慮した親日家の宣教師が、日本の栄一にこの人形交流を提案する。栄一もこれに共感し、外務省や文部省にかけあって、交流が実現する。だが栄一の死から10年後、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、これらの人形は敵国のものとして嫌われ、多くが処分されてしまった。
 
そんな苦難をくぐり抜け、現代まで残った青い目の人形は、「横浜人形の家」で常設展示されている。館の入り口近くには、横浜市西区の西前小学校に保存されている人形をモデルにした石像がある。
 
 
 
栄一の軌跡と横浜 
 


渋沢史料館。周囲は飛鳥山公園として憩いの場になっている

 
東京都北区、かつて栄一の邸宅があった場所に「渋沢史料館」がある。展示を見ていくと、栄一は、私利私欲ではなく社会の一員として正しいことを行おうとする道徳と、企業などの利潤を追求する経済とが両立する「道徳経済合一」の実践を志してきたことがわかる。多くの会社に関わったのも、実業家としての栄一の実績はもちろん、このような志を持つ人柄が頼られたことにもよるのだろう。
 


フランスで撮影された栄一の写真。後ろの絵は栄一が頭取となった第一国立銀行(渋沢史料館展示室にて)

 
展示室の最初は、若い栄一が幕府の務めでフランスへ渡った時に撮影したという全身写真で始まっている。横浜の外国人を討とうとした農家の青年は、やがて横浜から外国へ旅立って多くのことを見聞して実業家となり、後には外国と日本の親交にも力を尽くすようになった。
 
 
 
実業家で民俗学者の渋沢敬三
 


渋沢史料館常設展示“渋沢敬三”のコーナー

 
渋沢史料館の常設展示は、最後の方に、栄一ではない人物の展示がある。それが、栄一の孫である渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう)だ。実は、この孫の敬三が生涯をかけて没頭した民俗学の研究が、神奈川大学にある日本常民文化研究所に受け継がれている。