横浜に深い繋がり!新一万円札・渋沢栄一とその孫・渋沢敬三
ココがキニナル!
新一万円札に決まった渋沢栄一は横浜を焼き討ちにしようと計画した事があるって本当?(ライター・ハヤタのキニナル)
はまれぽ調査結果!
渋沢栄一は横浜の異人館の焼き討ちを計画したこともあるが、後には横浜の経済発展に関わった。孫の敬三は民俗学研究に尽力。神奈川大学の研究所で引き継がれている
ライター:ハヤタミチヨ
渋沢栄一の孫、渋沢敬三ってどんな人?
渋沢敬三は、1896(明治29)年に生まれ、1963(昭和38)年の67歳まで生きた。敬三が生まれた時の渋沢家はすでに日本有数の名家であり、父は渋沢栄一の長男で、一族待望の次の跡取り誕生だった。しかし、後に父は病気などの事情により家督相続者から外れ、敬三は17歳の若さで渋沢栄一の後継者となり、その財産と責任を一身に受けることになってしまった。幼いときから魚などの自然科学方面への興味が強かった敬三は、その学問ができる進路を希望していたが、祖父の栄一から畳に額をこすりつけるほどに頭を下げて頼みこまれ、やむなく実業家への道を志したという。
そんな経緯を経て、敬三は東京帝国大学法科大学経済学科(現在の東京大学経済学部経済学科)へ入学、卒業後は横浜正金銀行へ入行した。4年ほどで退職し、栄一が創立した第一銀行(現みずほ銀行)取締役、澁澤倉庫取締役に就任するなど、栄一の業績をついで名実ともに実業家の道を歩む。
終戦直後に敬三は大蔵大臣に就任し、戦後の混乱する金融政策に手を付けるが、半年ほどでGHQの指令により公職追放、さらに財閥解体となる。やり繰りすればそこそこの財産を維持できる手段もあったはずが、それでは社会に示しがつかないからと、広大な自分の屋敷まで差し出した。この時の敬三は、「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」と語ったという。その後、残ったわずかな資産で全国を旅しながら、かつての使用人の家で畑を耕すような生活だったが、1951(昭和26)年に公職追放が解除されると、多くの団体や企業に請われて役職に就任し、再び実業界の人となる。
一方で、敬三は、学生のときから、仲間とともに自宅の自動車小屋の屋根裏に郷土玩具や化石などを集めた小さな博物館を作り、「アチックミューゼアムソサエティ」という会を組織した(後に「アチック・ミューゼアム」と改名)。アチックミュージアム=屋根裏部屋の博物館という名が付けられたこの会は、後に漁村などの生活道具や古文書といった資料を収集し、全国に住む一般の人々の暮らしや歴史などを明らかにする本格的な研究を行うようになっていく。若い研究者を育てる役割も果たし、民俗学者の宮本常一(みやもと・つねいち)、歴史学者の網野善彦(あみの・よしひこ)などの著名な学者を出した。太平洋戦争で英語名の変更を迫られ、「日本常民文化研究所」と改名する。
戦後の研究所は、1950(昭和25)年に財団法人となった。1963(昭和38)年に敬三が生涯を終えて、財団法人の研究所を解散後、神奈川大学に招致され、1982(昭和57)年に神奈川大学日本常民文化研究所が設立される。
神奈川大学日本常民文化研究所を訪問
なぜこの研究所が神奈川大学に置かれたのだろうか。研究所について、神奈川大学日本常民文化研究所の佐野賢治(さの・けんじ)所長にお話をうかがうことができた。
佐野賢治所長。民俗学を専門とされている
敬三の没後、民間の独立した研究所の維持はやはり難しく、あわせて全国から借用した膨大な古文書も返却できないままという問題も解決できない状況になっていた。そこで、研究所の活動を持続してくれる大学や研究所を探すことになり、神奈川大学にはかつての研究所に在籍した網野善彦氏と繋がる人や、優れた経済史の教員もいたことなどから、招致されることになったという。
この日本常民文化研究所で研究していることは、歴史の教科書に登場する有名人ではなく、海で魚を取ったり、山で林業に携わったり、平地で田畑を耕していた人々(=常民)が対象だ。そのために、古文書はもちろん文字のない絵画や道具、芸能なども調査し、民俗学、歴史学などあらゆる学問が連携しながら、広い視点の研究が必要となる。なので、研究所には、学問の垣根を超えて、いろいろな専攻の研究者が所属している。
神奈川大学横浜キャンパスにある日本常民文化研究所
「渋沢栄一も敬三も広い視野を持っている人でした。政策立案できる日本のリーダーでもあったけれど、上から政策を押し付けるのではなく、下からの資料を集めて、そこから判断しようとする人だったと思います」と佐野所長は語る。「それは現代でも重要なことで、例として捕鯨問題でいえば、鯨を供養し墓や戒名までつけるような日本の漁村の慣習など、民の文化や歴史を掘り起こすことで発信できることもある。逆に、外国にも同じようにある民の文化を知り、互いの生活について理解を深めれば、国と国の衝突を避けることもできるかもしれない。ますます複雑化する今後の社会にとっても、日本が積み重ねてきた歴史を下から掘り起こしていく研究は必要になるでしょう」
といっても、学者が集まって研究しているだけでしょ?と、一般人には縁遠いものと感じてしまうかもしれない。実は、大学のキャンパス内には、神奈川大学史展示室とあわせて日本常民文化研究所の展示室がある。開館日時であれば、大学関係者以外でも無料で見学が可能だ。日本常民文化研究所がどんな研究をしているのか、ちょっとのぞいてみたい時に、ふらっと立ち寄ることもできる。
神奈川大学横浜キャンパス内にある日本常民文化研究所展示室
渋沢敬三とアチックミュージアムから、現在の神奈川大学日本常民文化研究所となるまでのあゆみを解説する常設展示と、時期により内容が変わる企画展示室で構成されている。
2019年3月からの企画展示のタイトルは、「和船・神奈川湊・横浜港」。パネルで近世の神奈川湊と、近代以降の横浜港と船について解説され、部屋の中央には、かつて日本で使われていた和船の模型が置かれている。
「海は他の陸を隔絶するものでもあるけれど、文化を繋ぐという面もある。神奈川大学の常民文化研究所は、港湾都市・横浜に設置されたということで、ますます意味がでてくるのではないか」と佐野所長。現在も文部科学省から共同研究拠点として認定された国際常民文化研究機構が設置されているが、今後さらに広がりを持つ研究機関となることを目指しているという。もちろん、海外に目を向けるばかりではなく、日本全国での調査や、市民向けに古文書講座やセミナーも行われており、一般の人々(=常民)による常民研究の裾野を広げる活動も行われている。
夢をあきらめて実業家となった渋沢敬三が本当はやりたかったことは、この横浜でも引き継がれている。それはもしかしたら、社会の弱者や外国にも目を向けていた渋沢栄一の思いにも通じるかもしれない。
取材を終えて
かつて横浜の異人館を焼き討ちしようとした渋沢栄一。時代の変化に伴って、栄一は横浜を利用して海外の人々と交流するようになり、関わった事業は現在も横浜のシンボル的なスポットとして残っている。孫の敬三は、栄一を継いで実業家の道を歩む一方で、本来進みたかった民俗学の研究に情熱を費やし、その魂は神奈川大学の研究所に引き継がれている。同じ実業家一族である祖父と孫、それぞれが横浜に残したものの違いはあれ、どちらも大きな価値あるものであることは確かだろう。新札をきっかけに、彼らの精神や現代に残したもの、そこから私たちが学べることは何か、ちょっとだけ考えてみてもいいかもしれない。
ー終わりー
取材協力
公益財団法人渋沢栄一記念財団 渋沢史料館
神奈川大学日本常民文化研究所
参考資料
佐野眞一『渋沢家三代』1998年、文藝春秋
島田正和『渋沢栄一-社会企業家の先駆者』2011年、岩波書店
横浜市歴史博物館・神奈川大学日本常民文化研究所 編
『屋根裏の博物館-実業家渋沢敬三が育てた民の学問』2002年