有名な戦国武将・毛利氏の発祥は、神奈川県厚木市だったって本当?
ココがキニナル!
NHKの名前バラエティー番組で、毛利氏の発祥が神奈川県だったと。詳しくは触れてくれなかったので、調べて下さい。(ホトリコさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
毛利氏の発祥の地は、現在の厚木市にあった毛利庄で、鎌倉時代の毛利季光が毛利氏の祖。激動の時代を生き抜きながらいくつかの土地へ移り、戦国大名毛利元就や、幕末の長州藩主の毛利氏につながっている。
ライター:ハヤタミチヨ
毛利氏といえば、戦国時代に安芸国(広島県)を本拠とした毛利元就で知られ、その子孫は幕末に高杉晋作などが活躍した長州藩(山口県)の藩主の家でもある。だがそれらの有名な毛利さんがいたのは現在の広島県・山口県といった中国地方で、いうまでもなく関東の神奈川県からは遠く離れた地だ。
その毛利氏が、神奈川県が発祥といわれるのは本当なのだろうか。だとしたら、どうして遠い山口県に住むことになったのだろう? さっそく調査することにした。
相模から越後・安芸へ。毛利氏の歴史
毛利氏が厚木市発祥ということは、インターネットでもさまざまなサイトで記されている。さらに『国史大辞典』にある「もうりし 毛利氏」の項目でも、
“鎌倉幕府御家人、のち近世外様大名。大江広元の四男季光が、本拠、相模国毛利庄(神奈川県厚木市)の在地名により毛利氏を称す(以下略)”
と書かれている。
日本史のことなら『国史大辞典』
このように、現在の厚木市に「毛利庄」という地があり、その地を本拠地とした鎌倉幕府御家人「毛利季光(もうり・すえみつ)」が毛利氏を名乗ったことが毛利氏の発祥という通説であることを確認できる。
さらにその後の、毛利氏が山口県へ移るまでの過程には、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱を経て、戦国時代といった激動の時代を生き残った毛利氏の興亡がある。
毛利氏略系図(相模国から安芸国へ移るまでの人々)(クリックして拡大)
季光の父である大江広元(おおえのひろもと)は、もともと京都の貴族だった。しかし源頼朝と親交があったことから、頼朝から呼ばれて鎌倉へ下り、頼朝の側近として、幕府の創設に関わる重要な役割を果たす。この大江広元の時に「毛利庄」を領地としたようだ。
季光はその四男で、1202(建仁2)年に生まれた。やがて父の所領から相模国毛利庄(厚木市)を相続し、その地名から毛利季光と呼ばれるようになる。ちなみに、毛利は現在の一般的な読みでは「もうり」と読むが、「もり」と読まれていた可能性もあるようだ。
厚木市に毛利庄という土地があった
鎌倉幕府での季光は、三代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)に仕え、評定衆という重要な役職をつとめる有力な御家人だった。実朝が殺された直後は、出家して僧となり「西阿(さいあ)」と名乗る。だが、以後も幕府で力を持つ人物の一人であり、季光の娘は、執権(将軍の補佐。幕府の政治を統括する最高職)の北条時頼(ほうじょう・ときより)に嫁いでいる。
しかし、1247(宝治元)年、有力御家人の一人である三浦泰村(みうら・やすむら)と、執権北条氏が武力衝突を起こした宝治合戦(ほうじがっせん)が起こる。季光は妻の実家であった三浦氏に味方するが、敗北。源頼朝の墓がある鎌倉の法華堂で、戦いに加わった息子達とともに自決した。
ところが、季光の子のうちただ一人、四男の経光(つねみつ)が、領地のある越後国(新潟県)に住んでおり、合戦に関わっていなかった。このため、経光が持っていた領地の越後国佐橋庄(えちごのくにさはしのしょう、新潟県柏崎市)と、安芸国吉田庄(あきのくによしだのしょう、広島県安芸高田市)の所有権は保持することになる。だが、ここで、相模国毛利庄と大江広元・毛利季光と受け継がれてきた領有関係が終わり、以後の毛利庄の領主は毛利氏ではなくなった。
やがて、経光の跡をその子である時親(ときちか)が受け継ぐ。ただし、越後の領地は時親の兄弟も領有した。この時親の兄弟の系統は以後も越後に残り、越後の地名から北条(きたじょう)氏を名乗って続いたとされている。この時親の生きている間に鎌倉幕府が滅亡。時親は子の貞親(さだちか)に越後国佐橋庄の領地などを譲って隠居し、自身は安芸国吉田庄へ移った。
時親は、現在の広島県安芸高田市あたりに移り住んだ
1336年頃から、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と足利尊氏が対立する南北朝の争乱が起こり、貞親とその子の親衡(ちかひら)は、後醍醐天皇の南朝方として越後を中心に活動した。一方、時親は曽孫の元春(もとはる、師親〈もろちか〉ともいわれる)を後見し、北朝方として安芸で活動する。結果として南朝が衰退し、越後国で活動していた一族は時親の取りなしにより北朝に服従して安芸国へ移り、毛利氏の長となっていた元春とは別の家をたてた。元春以後の毛利氏は、安芸の領主として活動していく。
鎌倉時代~戦国時代の毛利氏本拠の変遷(© OpenStreetMap contributors)
ともあれ、このような経緯で、相模国毛利庄の地名から毛利を名乗るようになった一族が、越後国でその血を残し、やがて安芸国へ移る。その後、戦国大名の毛利元就の時には中国地方最大の勢力を誇る一族となった。
毛利元就の孫にあたる輝元(てるもと)の時、世は豊臣秀吉の天下で安定した頃で、輝元は広島に城下町を整備し、本拠を移転。秀吉死後も、いわゆる”五大老”として豊臣政治の中心的な一人だった。しかし、1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対する西軍の総大将となるも、敗北。戦後処理で、輝元は中国地方で8ヶ国あった領国を、周防・長門国(山口県)の2国に減らされ、本拠を安芸国から長門国の萩に移し、江戸時代に続いた。やがて、幕末にはこの毛利氏の藩から明治維新の立役者となる志士を多数輩出することになる。
安土桃山時代~江戸時代末期の毛利氏本拠の変遷(© OpenStreetMap contributors)