横浜を代表するミュージシャン、エディ藩ってどんな人?
ココがキニナル!
横浜を代表するミュージシャンであり、松田優作も歌ったかの名曲「横浜ホンキートンクブルース」の作曲者でもあるエディ藩さんへのインタビューをお願いします。(ryoryo さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜の街で生涯現役をうたう“ハマのブルースキング”、エディ藩。音楽に選ばれし男の色気と風格は、話もサウンドも極上のものだった。
ライター:クドー・シュンサク
今は亡き名優、松田優作が1980年に発表したアルバム『TOUCH』の収録曲である「横浜ホンキートンクブルース」。時代を選ばず、今もなお愛されているこの名曲の作り手であり、1960年代のグループサウンズブームの枢軸ともいえる、横浜本牧発の“ザ・ゴールデン・カップス”のギタリストこそ、今回の主役、エディ藩さんだ。今ではハマのブルースキングと呼ばれているエディさんのパーソナリティや音楽への思いを、深く濃く、聞かせてもらうことにした。
エディ藩とは
1947年、神奈川県出身。横浜中華街で生まれ育ち、街にアメリカ兵も多くいたこともあって、幼い頃からアメリカンミュージックに触れて育った。中学生の時、親に買ってもらったギターを手に、バンド“シャドウーズ”を結成。関東学院高校に進学してからもバンド活動を続け、インターナショナル・ハイ・スクールに転校した後、“ザ・ファナティックス”という、後に横浜の代表的存在となるバンドを結成した。
ハマのブルースキング・エディ藩さん(写真提供:アルタミラミュージック)
高校卒業後に“ザ・ファナティックス”は解散。その後の1966年に、単身アメリカ放浪へ出かける。アメリカン・ロックの本場で触れた音楽に大きな衝撃と影響を受け、「自分も本物のミュージシャンになる」ということを改めて決心したという。
帰国後、本牧のバー「ゴールデン・カップ」のステージに出演。当時としてはかなり斬新なR&Bバンドとして高い評価を得る。ステージでの活躍を買われ、テレビ出演などを経て、1967年、ついにメジャーデビューを果たすことになる。当時は別の名前で活動していたが、わかりやすい名前にということで“ザ・ゴールデン・カップス”に改名した。1968年3月にシングル「長い髪の少女」が大ヒットし、アイドル的な人気を博す。
人気と実力を兼ね備えた“ザ・ゴールデン・カップス”であったが、音楽性の変化とともに幾多のメンバーチェンジを重ね、1972年に惜しまれつつ解散した。解散後もエディさんは精力的に音楽活動を続け、「Back To China Town」などの名曲を生み出している。
若かりしザ・ゴールデン・カップス時代のレコードジャケット(エディさんは一番左)
お話を聞きにライブ会場へ
取材当日ライブが行われた関内「barbarbar」
約束の時間にbarbarbarへ到着すると、ライブ前のリハーサルのセッティング中であった。
慌ただしい中にもかかわらず、エディさんは笑顔で一言、「これ(リハーサル)終わったら、いいよ」。
言葉少ななエディさんからは、独特の色気とオーラがにじむ
入念なリハーサルは1時間続いた