検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

かつて横浜市内に130社以上も存在した「捺染(なっせん)会社」の今を教えて!

ココがキニナル!

昔、帷子川あたりは捺染工場ばかりで、川で布を洗っていました。上星川駅前の温浴施設が入居するビルも捺染会社所有だったのでは。捺染業の昔と今を取材願います(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

捺染は横浜開港以来の歴史を持ち、最盛期には市内に130の捺染会社があったが、現在は15~6社。多くは地方に工場を移している。

  • LINE
  • はてな

ライター:大和田 敏子

恥ずかしながら、「捺染(なっせん)」という言葉自体、知らなかった。 “捺染”の“染”の文字、“布を川で洗う”というキーワードから、どうやら染物に関することだとは、わかるのだが・・・。「捺染とは何か?」というところから理解しければと思うと、ちょっと気が重い。

インターネットで調べてみたところ、簡単に言うと、捺染は染色法のひとつで、型紙を用いて染料をすり込んで模様を染め上げる技法のようだ。なんとなくわかるが、具体的なやり方がわからずピンとこないので、図書館で調べていると、「横浜捺染―120年の歩み」(日本輸出スカーフ捺染工業組合、1995年発行)という本を見つける。
 


横浜捺染の歴史が書かれている

 
これは、発行元「日本輸出スカーフ捺染工業組合」に聞けば、捺染の技法や横浜の捺染の歴史を知ることができ、一挙にキニナルが解決すると期待を抱く。調べてみると、今はもう、日本輸出スカーフ捺染工業組合はなく、横浜スカーフ関連工場が合同して協同組合ギルダ横浜を結成し、活動を継いでいることがわかった。
 


捺染業は、開港を機に生まれた伝統工芸「横浜スカーフ」を支える産業

 
「横浜スカーフ」とは、生糸業や絹製品の輸出が盛んで、捺染技術者が数多くいたという開港後の横浜で生まれた伝統工芸。上の写真は、横浜スカーフコンテストの親善大使賞を受賞したもの。

ギルダ横浜に電話してみると、事務局の北澤克夫さんは、なんと、「横浜捺染―120年の歩み」の著者と分かる。早速、北澤さんのもとへうかがった。
 


協同組合ギルダ横浜常務理事、北澤さん

 
北澤さんは以前、総合商社にお勤めされており、捺染の業界とは全く無関係だった。58歳のころ、ガンで余命1年の宣告を受けて入院。その間に、横浜に長く住んでいるのに、横浜のことを何も知らないと気づき、いろいろ調べるようになった。

体調の回復が思わしくなく、定年前に退職したが、地場産業の捺染に興味を持ち、前述の本を書くほどに捺染にのめり込む。これをきっかけに組合の仕事を手伝うようになったという。

捺染とはどのようなものなのか、あらためてうかがってみると、
「捺染の始まりは理論的には浮世絵の版画。木を彫った木版を型にして布に模様をつける木版捺染です」と北澤さん。
 


江戸時代の版木・刷毛・バレン


その後、にかわで頑丈にした紙に絵を描いたものを型紙とし、刷毛で刷りこむ“更紗(さらさ)捺染”が生まれ、今の“スクリーン捺染”の基礎になった。

スクリーン捺染では、枠に紗(うすぎぬ:時代とともに、篩絹〈ふるいぎぬ〉や軽目羽二重〈かるめばぶたえ〉からナイロン、ポリエステルと変わっていった)を張り、薬品を使って色の通る部分を決めたスクリーン型が型紙の役割を担う。それぞれの色の染料を染め付け、色ごとに使う型を変えて、ひとつの図柄が出来上がるという仕組みだ。技術の進歩によりオートスクリーン捺染機もできた。
 


スクリーン捺染(手動)の仕事風景

 
「横浜の捺染技術を支えているのは、手動のスクリーン捺染。その仕組みや職人の技術が、深みのある色合いの美しい模様を作り出している」と北澤さん。オートスクリーン捺染ではできない味わいがあるという。

横浜捺染の歴史を「横浜捺染―120年の歩み」の内容に、北澤さんにお話いただいたことを加え、簡単にまとめてみる。