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かつて横浜市内に130社以上も存在した「捺染(なっせん)会社」の今を教えて!

ココがキニナル!

昔、帷子川あたりは捺染工場ばかりで、川で布を洗っていました。上星川駅前の温浴施設が入居するビルも捺染会社所有だったのでは。捺染業の昔と今を取材願います(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

捺染は横浜開港以来の歴史を持ち、最盛期には市内に130の捺染会社があったが、現在は15~6社。多くは地方に工場を移している。

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ライター:大和田 敏子

横浜捺染は横浜港開港とともに始まった!
 


1859(安政6)年、貿易港として開港した横浜には多くの商人が集まり、外国商人の居住が許されていた「居留地」では、日本と外国の商人との商談が片言の会話、身ぶり手ぶりで行われていた。
 


現在の山下町と山手町が居留地だった(『明治の日本』横浜開港資料館編)

 
江戸からは版画の職人、京都からは西陣織の職人など、横浜に憧れて野心を抱いた技術者が集まってきていたことや、ちょうどその時期、ヨーロッパで蚕の病気が発生して生糸が手に入らなくなり、日本の生糸が求められ、横浜が生糸市場として躍進したことが、横浜捺染の発展に大きな影響を与えた。
 


輸入商と輸出商(「明治風俗画帳(仮題)」1899〈明治32〉年)


1875(明治8)年以降、横浜から絹ハンカチの輸出が行われるようになると、その縁縫いの家庭内職が始まった。のちに、その作業を行う女性達は「ハンカチ女」と呼ばれ、捺染技術を用いたハンカチやスカーフの製造においても、大きな労働力となった。
 


絹ハンカチの縁縫いをする人たち(1929〈昭和4〉年ごろ)

 
“木版捺染”による絹ハンカチはしだいに横浜の地場産業として定着していった。
明治の半ばごろ、横浜の染色工場は、大小あわせて20以上に増加。手捺染業の草分けともいわれる出口染色工場、秋山捺染工場が企業形態を形成し、型紙を使って刷毛で刷り込む“更紗捺染”という技法ができたのもこのころのようだ。

1909(明治42)年横浜開港50周年で開催された横浜開港博覧会では、横浜ハンカチなども絹製品も展示され、諸外国の訪問客に横浜ハンカチが広く知られるようになった。
 


横浜港主要輸出品(「神奈川県百年」より)※クリックして拡大

 
その後も絹製品の輸出品は増加していったが、1923(大正12)年の関東大震災は、絹製品製造・輸出関連も他の産業と同様に大変な被害をもたらし、染色工場で残ったのは、秋山捺染工場など3社にすぎなかったという。

関東大震災の混乱もほぼおさまった1927(昭和2)年、横浜の貿易業者は再び業務を開始。この年、横浜市神奈川区沢渡にあった絹業試験所(現在の工業技術院物理工学工業技術研究所)の三平文(みひらぶん)がアメリカでスクリーン捺染法を学んで帰国したことをきっかけに、横浜の手捺染業は近代化へ進みはじめた。

スクリーン捺染の工程の説明は省くが、染料を生地に染め付けた後、余分な染料と糊を落とすために水洗が行われる。横浜には、大岡川、帷子(かたびら)川の2つの清流があり、捺染の発展の上でも大きな役割を果たしたという。
 


大岡川で布を水洗している様子
 

水洗で川の色が赤や青に変わったといわれる

 
このころ、絹ハンカチは英国、インド、アメリカをはじめ52ヶ国に輸出されていたが、日本にスカーフはなかった。1934(昭和9)年、絹ハンカチの輸出業者であった棚田勝次が、外国雑誌でスカーフを知り、ハンカチの絵柄を拡大してスカーフを作ったことがきっかけで、スカーフが注目され、輸出されるようになったようだ。

1937(昭和12)年には、横浜には75工場があったが、時代は戦争へと向かい、あらゆる産業が軍需品生産への転換を余儀なくされてしまう。工場の85パーセントは整理され、残った工場もシャツやパンツを作る軍の衣料工場となり、自然廃業や、数社が合同して継続していくしかない状態になってしまった。

敗戦後、捺染業者が焼け跡にバラックを建て、進駐軍兵士の好みそうなハンカチを手捺染で染めて商売をはじめて評判になった。また、婦人将校がハンカチを大きくしてスカーフやショールにすることを提案し、見本として作った捺染スカーフが好評を得たことが、捺染業復興の大きなきっかけになったという。
 


図案を描き、トレース(左)。染料の調合(1950年〈昭和25〉ごろ)
 

染色(1950年ごろ)

 
横浜にあった捺染技術と絹素材を使った「横浜スカーフ」の受注は次第に増加し、捺染の技術も進歩していったが、水洗については、大岡川や帷子川で行う原始的な方法が続いていた。
 


大雨で川が濁ったり、晴天で水量が減ったりすると作業ができず納期が遅れることが問題に

 
そこで、1954(昭和24)年には、旭区鶴ヶ峰に共同で利用できる水洗工場が建設され、昭和30年代には河川による水洗は行われなくなる。さまざまな技術の進歩により、当時、「横浜スカーフ」は全国生産量の90パーセントを占めるようになった。
 


鶴ヶ峰にできた共同水洗工場
 

縁縫い(1950年ごろ)

 
捺染業は、オイルショック、バブル経済、為替レートの変化といった経済の動向やファッションの流行の中で、浮き沈みを繰り返してきた。
 


1950年ごろの伊勢佐木町。スカーフ姿が目立つ(横浜市図書館)

 
その中で運が良かったのは、1955(昭和30)年ごろ、フランスのクリスチャン・ディオール、サンローランなどの多くのブランドが横浜スカーフのレベルの高さに注目し、委託加工することを望み、日本の企業とライセンス契約を結んだことだという。その結果、多くのブランドのスカーフが横浜で製造されることになった。

海外旅行が今ほど一般的でなかった時代、ヨーロッパ旅行でおみやげにブランド物のスカーフを買ってきたら、実は横浜で作られたものだったというのは、よくあったそうだ。

しかし、世界的な不況、ブランド志向の低下もあり、スカーフの売り上げが落ち、 1993(平成5)年ごろ、ディオールが委託契約を切ったのを皮切 りに次々と契約が切られ、捺染業の仕事は激減。また、バーバリーと三陽商会のライセンス契約が2015年6月で終了するのに伴い、海外ブランドの「横浜ス カーフ」は全て姿を消すこととなった。