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かつて中区大和町に巨大な射撃訓練場が存在していた!?

ココがキニナル!

横浜の戦争史跡について時々記事にされていますが、かつて中区大和町に巨大な射撃訓練場があったと聞いて気になっています。機会があれば調査をお願いします。(濱のホタルさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

大和町はかつてイギリス軍やほかの軍隊が射撃訓練場として使用していた。その後、民間に払い下げられ、街として発展した。

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ライター:松崎 辰彦

かつて射撃場だった大和町



ここに一枚のパネルがある。
 


大和町の歴史を説明したパネル。現在は町内会館に展示されている
(画像提供・長沢博幸)


「大和町の成立ち」と銘打たれた、タテヨコ数十センチのパネルだが、ここには大和町の歴史が描かれている。
作成者は本牧在住の郷土史家・長沢博幸さん。長沢さんは多くの資料を駆使して、本牧を中心にした地域の歴史を調べている。
 


郷土史家の長沢さん。山バッジも収集している


横浜市の伊波洋之助議員の依頼を受け、このパネルを製作した。
開港以来、大和町がユニークな歴史を持ちながらその事実があまり住民に知られていないことから、伊波議員は歴史の記録の作成を長沢さんにもちかけたのである。

このパネルには明治維新以前、まだ江戸時代に早くも外国人向けに射撃場ができたことが写真入りで説明されている。

「1864(元治元)年に幕府はアメリカ・イギリス・フランス・オランダ各国の公使との間に『横浜居留地覚書』を締結しましたが、それによって翌年の1865(慶応元)年に、外国人射撃場ができました。それが『鉄砲場』と呼ばれ、場所は今の大和町です」

長沢さんが説明する。

「イギリス軍が射撃訓練場の建設を要求したことに対し、当初幕府は難色を示しました。彼らの目的に、軍隊の訓練という名目のほかに日本側への威嚇があることは、幕府だってわかっていた。しかし話を引き延ばしていると、イギリスの公使が催促し、とうとうイギリスに9016坪の土地が貸し付けられることになったのです」
射撃場を作ったのは、イギリスの工兵隊だった。
 


鉄砲場におけるスイス・ライフル・クラブの射撃大会 「The Far East」より
(画像提供・長沢博幸)


1865(慶応元)年、会員制射撃クラブ「スイス・ライフル・クラブ」と「横浜ライフル・アソシエイション」が結成されたという。同年11月8日には最初の競技会が開催され、その後、毎週水曜日の午後に開催されることになった。
現在の本牧通り側から、立野小学校側に撃ったと言われている。
 


鉄砲場全景「The Far East」より
(画像提供・長沢博幸)


それまでこの場所は水田だったが、幕府が御用地として借り上げ、イギリスの駐屯軍に貸与したのだった。
これに対して、地元農民は「射撃の練習は農作業をしない11月上旬から2月下旬までに限定してほしい」「それ以外の時期に使用したいのであれば補償金を外国人に出させてほしい」「田を踏み荒らされると耕すときに困るので手当て金もほしい」といった要望を幕府に提出している。

近隣の農民には、やはり迷惑だったことがうかがえる。



民間に払い下げられた鉄砲場



こうしてできた鉄砲場だが、1871(明治4)年からは日本軍も使用するようになった。
さらにまた、イギリス軍のほかに、他国の軍隊にも使用が認められた。
フランス軍もその一つだったが、イギリス軍は赤い制服、フランス軍は青黒い制服を着用していたのでそれぞれ赤隊、青隊と呼ばれた。

のちにこの場所は、軍事目的のみならずレクリエーションの場としても使用されるようになった。長沢さんによると、陸上競技場やアイススケート場も作られた記録があり、写真も残っているという。

「横浜実測図に明記されているのですが、場所についてはなぜか誰も言及しません」
陸上競技場は、現在の本牧通りにあったと長沢さんは特定する。
 


 

鉄砲場に併設された陸上競技場。現在の本牧通り付近と思われる
「The Far East」より(画像提供・長沢博幸)


この射撃場は、1887(明治20)年ころには国が収容した。その後は県が管理し、時を経て個人に払い下げられている。

払い下げを受けたのは石川清右衛門(せいえもん)という民間人で、日本で初めてワイシャツを製造した人物として知られている。弁天通りにあった彼の店は「大和屋」であった。
 


石川清右衛門と大和屋弁天町店 「横浜成功名誉鑑明治42年」より
(画像提供・長沢博幸)


1910(明治43)年9月、清右衛門は絹や木綿、下着工場を射撃場跡に建設した。のみならず自らの家屋や、従業員の家も建てた。現在の大和町の基礎を作ったのである。
一企業を中心とした町は屋号をとって通称「大和町」と呼ばれるようになり、後に正式な町名として採用された。