かつて中区大和町に巨大な射撃訓練場が存在していた!?
ココがキニナル!
横浜の戦争史跡について時々記事にされていますが、かつて中区大和町に巨大な射撃訓練場があったと聞いて気になっています。機会があれば調査をお願いします。(濱のホタルさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
大和町はかつてイギリス軍やほかの軍隊が射撃訓練場として使用していた。その後、民間に払い下げられ、街として発展した。
ライター:松崎 辰彦
戦争により焼け跡から再出発した大和町
その後、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲により、大和町は灰燼(じん)に帰した。
大和町付近のバラックと家庭菜園
(横浜市史資料室)
大和町付近の焼け跡に建つバラック
(横浜市史資料室)
1929(昭和4)年に大和町で生まれ、町の移り変わりを見てきた松本寿さんは、横浜大空襲の日のことを鮮明に覚えている。
松本寿さん
「朝ですよ。飛行機がたくさん飛んできて、焼夷弾(しょういだん)を落としたんです。焼夷弾って火炎瓶みたいなもので、日本の家屋はよく燃えました」
大量の焼夷弾が落ちる、“シャーっ・・・”という音まで聞こえたという。焼夷弾のほかに爆弾も投下された。
「爆弾が投下されると、地面がこう(すり鉢状になる動作をして)なるんです」
生々しい様子を語る松本さんだが、戦後は経師(きょうじ ふすまなどを表具すること)店を開き、引退したのはつい数年前である。1936(昭和11)年の二・二六事件のことも覚えているという松本さんにとっても、やはり戦争の記憶はとくに鮮烈なもののようである。
こうしたユニークな歴史を持っている大和町。現在のまっすぐな道は、文字通り直進する弾丸の名残であることが判明した。
町の未来に関して、長沢さんは言う。
「こうした歴史があることにちなんで、赤隊、青隊の登場するパレードのような催しをやり、町の活性化を図ったらいいのではないでしょうか。とにかく、この町は歴史的には興味深いところです」
普段何気なく歩いている道にも、思いがけなく深い歴史があるものである。
取材を終えて
幾何学的にまっすぐな道は、感動的といってもいいものだった。この風景を目にするためだけでも、この町を訪れる価値があるのではと思える。
山手駅も新しい駅舎が完成した。今後この町がどのように発展するか、興味深い。
東山魁夷の名画「道」を思い起こさせる
―終わり―
参考文献 『横浜・中区史』(中区制50周年記念事業実行委員会)
他
oioaoiさん
2015年06月10日 19時59分
これは知らなかった! 町名の由来もはじめて知った。 もともと山手の駅はもっと柏葉の方にできる予定だったのを麦田の商店街の反対で今の場所になったと聞いた。麦田方面から駅へのアクセス道路としてまっすぐ敷いた道なのかと思っていた。
エアバスさん
2015年05月19日 23時56分
え、そうなんだ。今でも入り口方向から、終点の立野小学校まで見えるけど。
minato-no-yokoさん
2013年08月09日 16時22分
射撃場があったんだ!横浜に生まれ育って、64年。祖母(生きてれば120歳位)が大和町を「鉄砲場(てっぽうば)と言っていたのが、今わかりました。子供の頃は あの商店街は両面通行で、バスが通っていた! 『その頃はバスが 小さかったんだ』と 言われましたが。