菊名駅近くの住宅街にあるロータリーができた経緯は?
ココがキニナル!
菊名の駅裏側に使われていないロータリーのような場所があります。どのような経緯でこんな道路になったのでしょうか?(Ichiさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
東急東横線開通をきっかけに、大正末期から昭和初期に造られた。あの場所が駅前になるはずだった説と街づくりの一環として造られた説が飛び出した!
ライター:田中 大輔
地元の人に聞く
この不思議なロータリーの謎を解くべく、まずは地元の人に話を聞いてみることにした。
年配の人を中心に聞き込んでみたところ、「かなり前からこうだよ」という話を複数の人から聞くことができた。
以前は中央部分がもっと低かったという話も聞いた
すぐ近くに住む、戦時に疎開でこの辺りに引っ越してきたという男性は、「戦争中からあったんじゃないかな」と記憶の糸をたどる。
なんとなくわりと最近にできたのかと勝手に思っていたが、戦時中からとなると70年近く前からあるということになる。
少し高いところから。写真右側の方を東横線が走っている
ロータリーが造られた理由に話がおよぶと、さらなる話も聞かせてくれた。
「もともと、あの踏切の場所に菊名駅ができる予定だったんだよ。それでロータリーを造ったんだけど、大きくカーブしているから今の場所に変わったって聞いたよ」とのことで、この話が確かなら、そもそもは“駅前ロータリー”として建設されたということになる。
ロータリー中央から、駅予定地だったという踏切を望む
それならば、結果的に住宅街になっている場所にロータリーがある理由もちょっとは納得がいくが、本当のところはどうなのだろうか。
さらなる情報を求めて、今度は港北区の歴史に詳しいあの人にお話を聞きに向かった。
駅前になるはずだった!?
はまれぽで何度もお世話になっている「大倉精神文化研究所」を訪れ、研究部長の平井誠二さんに話を伺った。
大倉精神文化研究所のある大倉山記念館へ
平井さんも「何度か歩いたことはあります」という錦が丘のロータリー。
まずは地元の人に聞いた話の真偽について質問してみた。
「あそこに駅を作る予定だったという話は、私も聞いたことがあります」と平井さん。「踏切の辺りに個人でやっているお店があるんですが、駅ができるのを見越して店を出したという話も聞きました」と続ける。
はまれぽに何度も登場している平井先生
しかし、結果的にあそこは駅前にはならず、1926(大正15)年2月14日に今の場所にできた菊名駅を通る東横線(当初は丸子多摩川駅[現在の多摩川駅]と神奈川駅まで)が開業した。
そのお店には気の毒だが、駅前になるはずだったのならロータリーがあるのもすんなりと受け入れることができる。
ところが飛び出す別の説
ところが、である。
この当時の様子に触れた資料を読み進めると別の説も浮かび上がってくるのだ。
平井さんは「港北百話」(港北区老人クラブ連合会/港北区役所刊)を見せ、「こちらには“東横線が開通したが乗客がおらず、1926(大正15)年にあの辺りの土地を買収して造成した”とあります」と教えてくれる。
たくさんの資料を用意して取材に応じてくれた
また、平井さんの手持ちの資料にも「1927(昭和2)年に売り出した、とメモしてあります」とのこと。
つまり、こちらの話だと路線が開通してから、すなわち現在の場所に菊名駅ができた後に土地の買収や宅地開発が始まったことになる。
これが正しければ、駅前になるからお店を出したという話は誤りということに。
東急電鉄の社史「東京急行電鉄50年史」には、開業当日の乗客が9500人だったのに対し、その日を含む最初の15営業日で乗客5万5530人とある。「港北区史」ではこの部分に触れて、“開業数日にしてにぎわいが去り、常時の利用客は数少なかったことが分かる”と書いている。
ロータリー近くの踏切。今では多くの人が利用する東横線もかつては閑古鳥?
「当時は田畑があるくらいの場所でしたから、地元の人と言えば農家の方」と平井さんは言う。「彼らは仕事に行くのに電車は使いませんからね」と業績が伸び悩んだ理由を推察する。
「港北区史」には、それを受けて“利用客を増やす意味でも沿線住宅地開発は急務であった”という内容が書かれており、開発が開業後であったことを示唆している。