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ビール発祥の地は横浜説と大阪説、どっちが本当?

ココがキニナル!

北方小学校の近くが久しくビール発祥の地と認識していましたが、大阪もビール発祥の地という説もあるみたいですね。どちらが本当でしょうか?(Mhamaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

日本の国産ビール産業発祥の地は、外国人によって初めて醸造されたのが横浜、その3年後、日本人によって初めて醸造されたのが大阪である

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ライター:永田 ミナミ

生麦で山手に思いを馳せる



さて、山手にあるビール発祥の地をめぐったあと、現在、キリンビールの横浜である生麦工場の外観を見に行ってみようと石川町から新子安へ移動して歩いていくと、行く手に「KIRIN」の文字と巨大な施設が見えてきた。
 


巨大な建物はなぜ人を惹きつけるのだろう

 
興奮にまかせて工場に近づいていくと、横浜環状北線工事のフェンスに、まさにいま追いかけているビールの歴史が描かれている。おお、素晴らしい資料だと写真を撮影しながら奥へと進んでいくと、警備員の方が「工場見学ですか?」と声をかけてくださった。
 


山手123番時代、開業当初1885(明治18)年ごろのジャパン・ブルワリー

 
たしかに歩いてくる道すがら、ほんのりと頬を赤らめたご機嫌な人たちと何度かすれちがった。噂に聞いていたキリンビールの工場見学はまさにここだった。

誘惑にかられて取材のことを忘れかけ、「予約してないんですが、ふらっと来て入れることもあるんですか?」と聞いてみると、予約に空きがあれば入れることもあるという。誘惑はさらに輝きを増したがそこで正気を取り戻し、ビールの歴史を取材していることを伝えると、「受付に話してみるといいですよ」というアドバイスが。
 


お言葉に甘えて、いざ館内へ

 
エントランスを抜けて受付に向かい、取材の内容と後日の取材の約束をと話すと「少しお待ちください」と椅子を勧められ、5分ほどすると、何と「いま広報の担当者が参りますので」ということに。

本来は事前の予約が必要だが、たまたま30分ほど時間があいていたということで、あれよあれよという間に取材できることになった。横浜工場総務広報担当の三田さんのご厚意とビールの神様の思(おぼ)し召しに感謝。

というわけで、ここからは現在は工場見学のルートには含まれていない歴史コーナーで見せていただいたものと、三田さんとキリン横浜ビアビレッジブルワリーツアーガイド井上さんにうかがった話も交えて話を進めていく。
 


ラベルの右上の大きな写真がコープランド、中央上の写真はグラバー
 

上の写真では白飛びしてしまい、権利関係で入手できなかったコープランド氏(記者画)
 

ほかにも大正時代のポスターや当時の工場内部の写真、キリンビールの馬車
 

そして昭和から戦中、戦後へと展示パネルは続く

 
1945(昭和20)年には贅沢品として商品名もなく「麦酒」という文字だけになったラベルなど、興味深い展示がいくつもあったが、ビール発祥の時代から遠ざかってしまうので話を戻すと、キリンビール発売から13年後の1901(明治34)年に麦酒税法が施行されたことで、中小の醸造業者は撤退を余儀なくされ、ビール業界に再編の動きが起こる。

1903(明治36)年には札幌麦酒会社(後述)の関東に進出を機に競争が激化し、札幌麦酒、日本麦酒(後述)、大阪麦酒(後述)の大手3社合同による「大日本麦酒株式会社」が設立。

ジャパン・ブルワリーも合同の提案を受けたが、当時のチェアマン兼取締役であったフランク・スコット・ジェームズは、外国法人のジャパン・ブルワリーが、日本国内で展開するために国内一手販売契約を結んでいた明治屋の社長・米井源次郎と協議した結果、大手合同には参加しないことに。

代わりに、三菱合資会社社長・岩崎久弥の支援を得て、ジャパン・ブルワリーを操業状態のまま引き継ぐかたちで、1907(明治40)年に岩崎家と三菱合資会社、明治屋らによる新会社が設立された。これが「麒麟麦酒株式会社」である。
 


麒麟麦酒株式会社が創設された1907(明治40)年ごろの横浜山手工場

 
その後、1918(大正7)年4月には神崎工場(のちのキリンビール尼崎工場)、1923(大正12)年5月には仙台工場(現在のキリンビール仙台工場)が操業を開始するなど、本格的なドイツ式ビールであるキリンビールは人気を集めていたが、1923年9月の関東大震災により、横浜山手の工場は倒壊してしまう。

そこで、すでに手狭になっていた山手を離れ、より広い敷地に工場を再建することなった。東京へ移転する案も出たが、発祥の地である横浜にということで、物流の利便性の高い京浜間に位置し、広大な埋立地があいていた生麦に決定し、1925(大正14)年に現在地に移転した。
 


そして翌1926(大正15、昭和元)年、生麦に横浜新工場が完成
(提供:キリンビール)
 

落成披露式典には巨大なビール瓶と泡があふれるビアグラスの模型が飾られた
(提供:キリンビール)

 
三田さんと井上さんは、やはりというか、よく見学者から「生麦だけに?」と質問されると笑っていたが、キリンビール横浜工場は狙って生麦ではなく、自然の脅威と近代化、そして横浜発祥の矜持(きょうじ)とが重なりあって生麦にあるのである。

そして、横浜におけるビール発祥の歴史は、1869(明治2)年、つまり明治時代が始まったのとほぼ同時に、居留外国人の手によって山手46番と山手123番で醸造が始まり、1870(明治3)年に産業として動きだしたということになる。
 


工場に併設された「パブブルワリー スプリングバレー」の入口横には
 

山手工場跡から掘り出された煉瓦が置かれている

 


横浜から大阪に思いを馳せる



さて、もうひとつの「ビール発祥の地」候補である大阪はというと、大阪市営地下鉄四つ橋線、西梅田駅近くに碑があるようだ。
 


駅を出て四つ橋筋から少し東へ歩いたこの場所に碑はある(クリックして拡大)


説明板には以下のように書いてある。

国産ビール発祥の地

 わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが、日本人の手によるものとしては、澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
 当初は大阪通商会社で、明治四年(編集部注=1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが、実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり、綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ、明治五(編集部注=1872)年三月から、このあたりに醸造所を設け、ビールの製造・販売を開始した。銘柄は「澁谷ビール」といい、犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二~四五キロリットルを製造し、中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。

大阪市教育委員会


説明にある「わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていた」の部分が、スプリングバレー・ブルワリーやジャパン・ヨコハマ・ブルワリーを指しているということは、大阪市教育委員会に問い合わせて確認できた。両醸造所は明治に入ってからの創業であるが、それ以前にも居留外国人が半ば個人的に醸造していた醸造所もあるので「幕末」という表現は間違ってはいない。

ところで、大阪の碑の内容で重要なのは、1872(明治5)年に大阪のこの場所で渋谷(しぶたに)庄三郎という「日本人」によって「渋谷(しぶたに)ビール」が製造、販売された「国産ビール発祥の地」の碑であるということだ。
 


説明にもあった「渋谷ビール」の犬のラベル(提供:サッポロビール株式会社)

 
キリンビールのサイトにある「日本のビールの歴史」にも「国産ビール産業発祥の地は横浜・山手」とあるが、横浜はコープランドや居留地外国人が中心となって創業したものであり、外国人によって日本国内で最初に製造、販売された「国産ビール産業発祥の地」である。

時期としては1869(明治2)年創業の横浜のほうが早いが、「国産」という言葉を「日本国内で」と捉えれば横浜、「日本人による」と捉えれば大阪ということになるだろう。

ちなみにキリン園公園の片隅に立つ石碑には「文化遺跡 日本最初の麦酒工場 横浜市長半井清」とあり、こちらには議論の余地はなさそうだ。
 


裏には「昭和三十七年二月十一日W・コープランド氏の命日に建てる」とある