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ココがキニナル!

横浜出身の大歌手、渡辺はま子さんを知りたい。20世紀を代表する歌手であり、戦後に多くの兵隊さんをフィリピンの収容所から解放し、横浜港にも出迎えに行ったそう。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

渡辺はま子は「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒット曲を持つ、戦前から戦後にかけて活躍した歌手。フィリピン収容所から囚人の解放運動に尽力した。

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2014年12月15日

ライター:松崎 辰彦

はま子と死刑囚の間で交流が始まる

日々助命活動に命を削っていた加賀尾師に日本の歌手、渡辺はま子より初めての手紙が届いたのは1952(昭和27)年の初頭であった。はま子は2月15日付けで、加賀尾師に手紙を出している。

フィリピン国会議員よりモンテンルパの戦犯の話を聞かされたはま子は、戦犯の留守家族の会に積極的に参加するなど、関心を深めた。さらに死刑に処せられた戦犯への追悼の意を込めて、現地に香(こう)を送り、囚人たちを感激させた。

そして何としてもみずからモンテンルパにわたり、戦犯を慰問したいと執念を燃やすようになった。

 

歌う渡辺はま子(提供:田沼清子)
 

そんなはま子のもとに死刑囚から手紙が届き、はま子がそれをラジオ番組の司会者に見せたところ、彼がラジオでそれを読み上げ、全国的な反響を呼んだ。
こうしてはま子と加賀尾師、そして戦犯たちとの間で頻繁な手紙のやりとりがなされるようになった。

 

モンテンルパの囚人たち(提供:植木信吉)
 

はま子は自分のレコードをモンテンルパに送り、フィリピンのキリノ大統領に戦犯の助命を訴える嘆願書を送った。

そしてある日、はま子のもとに死刑囚たちから一枚の楽譜が届いたことから、モンテンルパ戦犯助命運動はまさに奇跡のような展開を見せたのだった。 



『あゝモンテンルパの夜は更けて』誕生

「歌を作りましょうよ。私たちの歌。歌詞は皆さんの手で一つ作ってください」
加賀尾師は、囚人を前にしていった。
1952(昭和27)年3月半ばのことといわれている。

  

加賀尾師と囚人たち(提供:植木信吉)
 

加賀尾師の脳裏には、シベリア抑留者たちが故国日本を偲んで作った歌曲『異国の丘』があったと思われる。作者不明だったこの歌が日本でヒットしたことで、国民はシベリア抑留者の存在にいまさらながら気づいたのだった。

歌は人の心を支える。加賀尾師は歌の力の大きさに注目した。

加賀尾師の要請に応じて3人の囚徒が作詞したが、死刑囚だった代田(しろた)銀太郎氏の詞が一番よいということになり(あるいは加賀尾師が文学愛好家だった代田氏を直接指名して作詞させたともいわれる)、作曲をやはり死刑囚だった伊藤正康氏が担当することになった。

 

はま子と作詞者の代田銀次郎氏

 


モンテンルパのオルガンを弾く作曲者の伊藤正康氏(提供:植木信吉)
 

代田氏も伊藤氏も、身に覚えのない罪で死刑宣告を受けていたが、そうした二人で作った歌を、加賀尾師は「素人の作った歌だから、専門家に見てもらってほしい」という言葉を添えて、渡辺はま子に送った。

はま子のもとに、その楽譜──『あゝモンテンルパの夜は更けて』が届いたのは、5月14日のことである。はま子の多忙により1ヶ月ほど放置されたが、6月16日にはま子はビクターに赴き、控室でこの歌を、ピアノを弾きつつ歌った。

 モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る


「いいね。何の歌?」
かたわらでじっと聞いていたディレクターがたずねた。感動したようだった。
「これ吹き込みしよう」
彼の言葉で、その場で吹き込みが決定された。

6月28日のビクタースタジオで、はま子と男性歌手の宇都美清とのデュエットによる吹き込みが実施された。曲は素人めいた部分もあったが、原曲ができるだけ尊重された。
はま子は完成したレコードと蓄音機をすぐにモンテンルパに送った。

レコードは7月中旬に発売され、モンテンルパの囚人の減刑釈放を支援するはま子や宇都美清、宮城まり子、灰田勝彦らのコンサートも同じ時期に開催された。
『あゝモンテンルパの夜は更けて』は大ヒットした。この日からほどなくして、世間にはモンテンルパのブームが起こり、各地から多くの慰問品や寄付が寄せられた。



はま子、モンテンルパで歌う

はま子はモンテンルパで歌うことを切望したが、渡航目的が“戦犯慰問”ではなかなかフィリピンへの渡航許可がおりなかった。結局正式なビザはおりず、別の目的地の途中でフィリピンに寄る、という体裁をとることで事態は解決した。

はま子がモンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所に到着したのは12月25日である。
午後から牢獄でのコンサートが始まった。囚人手作りの「歓迎 渡辺はま子様」の横断幕を背に、はま子は『荒城の月』『浜辺の歌』『オー・ソレ・ミオ』『支那の夜』『蘇州夜曲』といった歌を歌った。

 

コンサートの模様を描いた絵画(提供:植木信吉)
 

用意してきた振り袖、イブニングドレス、チャイナドレスの3種類の衣装を着回して、受刑者たちの目を喜ばせた。

 

ドレスを着て歌うはま子(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)
 

そして最後は『あゝモンテンルパの夜は更けて』の大合唱になった。108名の囚人は、目をつぶって叫ぶように歌っている者、涙で歌えなくなる者、感慨にふける者など、皆がそれぞれの思いで、この自分たちのために作られた歌に魂を揺さぶられていた。
この模様はテープに録音され、ラジオから日本全国に放送され、大きな反響を呼んだ。

 

囚人から花束が渡された(提供:植木信吉)
 



キリノの心を溶かした『あゝモンテンルパの夜は更けて』

はま子は知り合いのオルゴール業者に『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴール化を頼み、やがてそれは実現した。アルバムの中にオルゴールが仕込まれているものである。彼女はそれをモンテンルパの加賀尾師に送った。

当時、加賀尾師は嘆願書や他者を介しての訴えに限界を感じ、大統領本人への直訴を働きかけていた。そしてついに、キリノ大統領との面会が実現した。1953(昭和28)年5月16日のことである。

 

キリノ大統領(左)と握手する加賀尾師。右端は戦犯釈放に尽力した金山政英参事官
(提供:植木信吉)
 

キリノ大統領は朝食の席だったが、すぐに会ってくれた。加賀尾師はおみやげとして、はま子から送られた『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールが仕込まれたアルバムを持参し、大統領に渡した。
大統領が表紙を開けるとオルゴールが鳴り出した。
大統領は驚いたが、しばらく聞いていた。そしてたずねた。

「これは非常に哀調に富んだ音楽ですが、何という音楽ですか」

加賀尾師が答える。
「これは『モンテンルパの夜は更けて』という音楽でありまして、モンテンルパの死刑囚が作曲したものでございます」
すると大統領は深く何かに感じ入ったようだった。そしてもう一度、音楽を聞いた。

やがてアルバムを閉じて、いった。
「この7月4日の独立記念日に、日本人を二人釈放しましょう」
そしてその二人の名を挙げた。キリノ大統領が戦時中、日本軍の捕虜となったときに大変、親切にしてくれた人だという。

さらに静かに続けた。
「自分の家内と最愛の三人の子どもは、日本軍によって殺されたのです。しかし、そういうことはもう忘れています・・・」

この言葉を、加賀尾師は身を抉(えぐ)られる思いで聞いた。

 

キリノ大統領に送られたオルゴール(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)
 

大統領自身にとっても、日本人は憎しみの対象でしかないはずだった。しかし、加賀尾師の持参したアルバムから流れた『あゝモンテンルパの夜は更けて』は、凍っていた彼の心を溶かしたのである。

ここに閉じていた扉が開いた。
加賀尾師はその後も大統領側近と接触を続け、釈放される囚人の数を増やすことに努めた。

そして6月27日、キリノ大統領はモンテンルパの日本人戦犯に対する特赦令に署名し、全死刑囚を終身刑に減刑することを承認したのである。無期刑、有期刑の者は全員釈放となることが決定した。
さらに囚人全員の日本送還が言い渡された。

この知らせが囚人にもたらされたとき、歓声のあと、すすり泣きが広がった。
加賀尾師の頬は涙に濡れ、関係者への感謝を述べる言葉は何度も途切れた。



最後に歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』

1953(昭和28)年7月22日午前8時30分、フィリピンからの帰還船白山丸(はくさんまる)は横浜港の南桟橋に横付けされた。

 

戦犯を乗せた白山丸(提供:植木信吉)
 

その中には108名の戦犯、加賀尾師、そして戦犯釈放が決まってから日本の政府派遣団の一人としてモンテンルパに乗り込んでいた植木信吉氏らがいた。
港には300人の家族と、2万8000人以上の出迎えの人々がいた。

その数日前、はま子のもとに帰国者一同の気持ちを代弁して加賀尾師からこんな手紙が届いていた。

「上陸する卅分(注・三十分)前でもいいからあなたにぜひお会いしたいといっている。そして最後の船上で昨年のクリスマスの日の感激のようにあなたのリードで全員が“モンテンルパの夜は更けて”を合唱し“君ケ代”と“海ゆかば”を歌って上陸したいといっています。“海ゆかば”はなんとなく軍国調ともとられましょうが、あちらで死んでいった人々の気持ちを考えるとやはりこの歌を歌ってやりたいのです。どうか横浜入港のときはなんとかして船まできて下さい」(『神奈川新聞』1953〈昭和28〉年7月22日)

 

神奈川新聞1953(昭和28)年7月22日付け
 

神奈川新聞1953(昭和28)年7月22日付け
 

神奈川新聞1953(昭和28)年7月23日付け
 

当日、はま子は何をおいても駆けつけた。

帰国した戦犯は、すぐに釈放される者と、巣鴨拘置所で服役生活を送る者に分かれたが、同年12月27日にキリノ大統領は日本人全員の特赦令に署名し、拘置所組も晴れて釈放された。

釈放されるにあたり、元拘置所組は日本工業倶楽部でお別れ会を催したが、これにもはま子は参加した。加賀尾師や植木氏も参加して、最後ははま子の音頭で『あゝモンテンルパの夜は更けて』を歌ったが、歌うにつれて男たちの歌声は嗚咽に消えて、はま子の歌声だけになり、やがてそれも涙声になった。

彼らの戦争は、ようやく終わったのだった。


キニナル続きは、植木氏本人に直接「モンテンルパ」についてお伺いした 
 

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