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戦争とともに幻に。根岸競馬場内にひっそりと存在した旧海軍用の印刷会社「文寿堂」の歴史を教えて!

ココがキニナル!

中区根岸台の横浜競馬場跡のスタンド下に文寿堂という印刷会社があり、日本軍の重要な印刷機関だったそう。また近くの簑沢地区は、文寿堂で働く人の住宅だったそう。当時の状況を取材して!(tokuさん)

はまれぽ調査結果!

文寿堂は1880年創業。当時の横浜を代表する企業で1943年から日本海軍の印刷物を扱い根岸競馬場で営業。簑沢台には従業員の住居もあった。

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ライター:三輪 大輔

根岸競馬場の歴史

根岸競馬場が作られ、初めて競馬が行われたのが1867(慶応3)年。大政奉還で250年以上続いた江戸時代が終焉を向かえ、新しい時代に日本が足を踏み入れた年である。しかし実は、根岸競馬場設立前から、横浜では競馬は行われていた。その発祥には諸説あるが、根岸競馬場へ連なる軌跡の中で、必ず登場するのが「西洋人」である。

中でも根岸競馬設立の機運が高まったのが、1862(文久2)年に起きた生麦事件以降だ。この事件を契機に、攘夷派を警戒して、横浜に駐屯する英国軍、仏国軍の人数が増加した。その後、1863(文久3)年の薩英戦争や、1864(元治元)年の下関事件などで、西洋諸国と攘夷派との対立が先鋭化する。

そのとき、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの在留外国人を代表する各国が幕府に新競馬場設立を要求。幕府は、攘夷派の脅威から在留外国人の身を守ることも考慮し、この要求を受け入れ、1866(慶応2)年に根岸競馬場の造成が開始される。当時の攘夷派の勢いが、根岸競馬場の設立の遠因にもなっているのだ。
 


根岸競馬場には、駐在外国人も多く押しかけていた


こうした背景のある根岸競馬場であるが、設立後は大変にぎわいを見せ、伊藤博文や井上馨(かおる)、大山巌などの政府首脳も観戦に訪れている。また皇族関係者も来賓し、中でも明治天皇は1881(明治14)年から1899(明治32)まで毎年のように訪れ、合計13回も観覧したそうだ。
 


根岸競馬場で走っていた競走馬の様子(資料提供:横浜市史資料室)


当時の根岸競馬場は、内外の紳士の社交場でもあった。そのため、天皇が競馬場という社交場に顔を出し、友好ムードを熟成させることで、開国時に欧米諸国と締結した不平等条約の改定の外交交渉を援護しようと考えていたそうだ。

そして1923(大正12)年の関東大震災の際スタンドに亀裂が生じ、1929(昭和4)年にJ・H・モーガン設計による新スタンドが建築される。延べ面積約7700平方メートルで観覧席は4500席、現在も現存する地上7階の一等スタンドも、この時建造された。さらに、貴賓室や食堂、そしてラウンジなども備え、当時は日本屈指の近代建築物であったそうだ。
 


昭和年代の根岸競馬場の全景(資料提供:横浜市史資料室)
 

1930年代の根岸競馬場メインスタンドの様子


その後、1931(昭和6)年に満州事変が勃発。1937(昭和12)年には日中戦争が開戦されるなど、戦火の足音が日本全体に忍び寄る中、根岸競馬場はますますにぎわいを見せた。路面電車も長者町1丁目から山元町まで延伸され、競馬開催の日は屋台が軒を連ね、売り上げも右肩上がりを続けたそうだ。

そして、太平洋戦争という時代の激流の最中で「文寿堂」と「根岸競馬場」は交錯する。1943(昭和18)年のことであった。



大戦下の文寿堂



「文寿堂」と「根岸競馬場」を結びつけたのは日本海軍であった。

根岸競馬場のメインスタンドからは横須賀港を一望することができ、停泊している艦船の様子や工廠(こうしょう:軍事工場)、そして研究や実習の風景を探知することができたそうだ。また、通信連絡用務としての利用もできるなど軍事作戦上、必須の施設であった。こうした理由から、根岸競馬場は海軍に買収されることになる。
 


1943(昭和18)年6月10日に行われた根岸競馬場閉場式


そしてこの時、海軍省と日本競馬会との契約とは別に、日本競馬会理事長の安田伊左衛門と文寿堂事業主の佐藤繁次郎との間で、売買契約が交わされている。その内容は、競馬場の付属施設であった厩舎、便所、湯沸所、倉庫、炊事場、払戻金交付所などを文寿堂が買収するというものであった。

絶対に機密にしておかなければいけない艦艇用の暗号書の印刷をしたい海軍省。その思惑を実現するために、このころすでに老舗の印刷会社として知られていた文寿堂に白羽の矢がたったのだ。当時の文寿堂の社長は、2代目の佐藤繁次郎であった。
 


横須賀方面を見渡せるといわれているメインスタンド


工場の操業場所は、1988(昭和63)年に解体された2等館である。スタンドの地下が工場になっており、1階は植字室や活版印刷機が並ぶフロア、2階は海軍監督室、軍司令部分室、そして工務課・勤労課などの各課の部屋が並ぶフロアになっていた。ちなみに現存する1等館は事務所として使用されたそうだ。
 


現在の根岸森林公園の見取り図。1等館のすぐ横に2等館がある


海軍の管理工場となったことで、文寿堂に大きな変化が訪れる。横浜の町工場であった文寿堂が、一躍大企業になる契機を得たのだ。

戦時下では、国家総動員法などで多くのものが統制されていたが、それは企業活動においても同じであった。しかし廃業に追いこまれる企業も多く出る中、軍関係の工場となった文寿堂は、施設・機械・人材と全てを拡充していく。廃業した工場から多くの機械が運び込まれ、人材面も副社長に凸版印刷出身の人物を招聘したり、三省堂蒲田工場などの優れた技術者を呼びよせたりして、工場の体制を充実させていったのだ。
 


根岸競馬場内で営業していた印刷工場の様子(戦後米軍の占領下時代)
(資料提供:横浜市史資料室)


また、規模拡大に伴い印刷技術者を雇用する必要があった。そのため徴用(ちょうよう:国民を強制的に一般業務に就かせること)という制度のもと、東京辺りから徴用工として根岸競馬場まで通勤してくるものもいたそうだ。さらに戦時下の人手不足を補うため、学徒動員が行われ、山手の旧制女子学校の生徒や、近くの小学校高学年の学童が集団で文寿堂に入社。当時、1000名ほどが工場で働いていた。簑沢台に従業員の住宅が建設されたのも、このころである。

工場内は、海軍の監督官の下、4~5名の下士官が六尺棒を持って巡回。校正用のゲラの紛失などが起こると、裸にまでされて取り調べが行われ、厳重な監視下に置かれていたそうだ。

しかし戦局は悪化の一途を辿り、1945(昭和20)年5月29日には横浜大空襲が起こり、横浜市内が壊滅状態に陥った。根岸競馬場では、消火活動中に警務員が心臓発作で亡くなったが、焼夷弾で用紙倉庫が火災を起こす程度の被害状況だった。
 


1945年5月29日の横浜大空襲の白煙の中に浮かぶ根岸競馬場(写真左下)
(資料提供:横浜市史資料室)


そして1945年8月15日に終戦の時を迎える。進駐軍の支配下におかれ日本が大きく変わっていく中、文寿堂の運命もまた時代の流れに沿って大きく変化していく。