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銀座や浅草で有名な老舗百貨店「松屋」は横浜発祥って本当?(前編)

ココがキニナル!

銀座の松屋が昔、石川町付近にあったらしいのですが面影は?(yokkoさん)松屋が、単に伊勢佐木町にも有ったし戦前吉田橋のたもとにあったが位置関係がわからない(ushinさん)

はまれぽ調査結果!

現在の松屋の原点は、1869(明治2)年に石川町地蔵坂下に創業した鶴屋呉服店である。現在面影はなく、鶴から獅子へと変わりマンションになっている

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ライター:永田 ミナミ

石川町鶴屋呉服店



さて、ここからは名倉さんと佐柳さんのお話と、名倉さんが用意してくださった『松屋百年史』の横浜に関する記述、そして提供してくださった写真資料をもとに、松屋の歴史を紐解いていく。

冒頭でも触れたように、はじまりは1869(明治2)年に古屋徳兵衛氏が地蔵坂下、亀の橋のたもとに開いた「鶴屋呉服店」である。

「鶴」と「亀」という相性のよい組み合わせについて『松屋発展史』には「亀の橋」のたもとにある店であることから「鶴亀千萬年の齢になぞらへて将来の発展を期する意味で」つけられたとあり、なるほどと思っていたが事実は違うようである。

『松屋百年史』によると、現在の「亀の橋」は開業当初、店の前に架かっていたのは丸太を5~6本寄せ集めただけの名もない橋だったという。その後鉄製の橋が架けられ、1873(明治6)年に中村川に架かる橋に名称をつけることになり、すでに橋のたもとで「鶴屋呉服店」が繁盛していたことから「亀の橋」となったと考えられるという。
  


「鶴屋」ありきの「亀の橋」だったのだ。現在欄干は亀甲模様で飾られている
 

古屋徳兵衛氏は山梨県で生まれ、幼名を徳太郎といった。1861(文久元)年に商売を志す父長吉とともに江戸に出て、日本橋の薪炭仲買人のもとに身を寄せると、父は呉服仲継卸商(大口の売手から仕入れ小売店に販売する卸売業者)として働きはじめ、一方、徳兵衛氏は旗本屋敷に仕えた。

しかし明治維新によって主家が没落すると、商人の道へと進み、浅草雷門近くの海苔屋に奉公するがやがて倒産。次に横浜の当時弁天通5丁目にあった呉服店に雇われたが、3年後にまたもや倒産、帰郷したが、横浜時代の取引業者から独立資金を提供するという申し出があり、再び横浜にやってくる。

ところがすでに別の人に資金が提供されており、横浜で呉服商をしていた父と相談したところ、郷里に戻って家財を売り資金をつくることになった。それをもとに1868(慶應4)年1月、横浜緑町(現在の中区真砂町2丁目付近)に仲継卸商を開業した。徒歩で江戸まで行き、仕入れた呉服類を背負って横浜まで戻るか、船に積み込んで横浜に送った。また、この開業のとき初めて〇正(〇の中に正)鶴屋徳兵衛と名乗った。
 


仲継卸商時代の支度をした古屋徳兵衛氏(提供:株式会社松屋)
 

その後、同郷のとみ(1903<明治36>年に満寿に改名)と結婚し、地蔵坂下に居を構えた。徳兵衛氏が横浜と東京を往復し忙しく働く一方、妻とみは、自宅の柱と井戸の柱にひもを通して「端切れ(着物などを裁った、残りの布。1着分に満たない、小さな布(大辞林)」を売りはじめた。

すると、場所は横浜の中心地からは少し離れていたものの、地蔵坂を通って本牧へ往来する通り道であったため人通りが多く、端切れは女工などによく売れた。その後、とみの商売が軌道に乗ったのを機に、徳兵衛も仲継卸商をやめて小売業に移ることにした。

こういう経緯のため創業日は特定しがたいが、端切れ販売を始めた1869(明治2)年の、明治天皇の誕生日である11月3日を「鶴屋呉服店」の創業の日とすることにした。
 


横浜亀橋通(1879<明治12>年)五姓田義松画 鶴屋呉服店(提供:株式会社松屋)
 

開業当時の間口は2間半奥行4間半(約4.5メートル×8.2メートル)で店舗兼住宅だったが(『松屋百年史』より)
 

開店後まもなく、隣接する馬力業の店を鶴屋で買取り、角店(かどみせ)となり
 

1874(明治7)年には2~3軒離れた出帆箱屋の倉を借り、倉庫に改修し
  

1879(明治12)年に店舗を2階建に改築した(提供:株式会社松屋)
 

1869(明治2)年の創業当時の写真は残っていないため、先ほど紹介した絵はこの改築時のものだったのである。

ちなみに「馬力業」とは、地蔵坂を上る荷車を後押しする稼業で「出帆箱屋」とは輸出品を梱包するための箱を製造する業者である。
  


さらに1885(明治18)年には裏手に店舗を拡張。店員食堂も備えた(『松屋百年史』より)※クリックで拡大
  

 

鶴屋、東京へ



さて、ここで東京に目を移してみる。

当時東京市神田区鍛冶町34番地(現在の千代田区神田)にあった「今川橋松屋呉服店」は1776(安永5)年創業で、江戸では越後屋、大丸、白木屋の三大呉服店に続くとも言われた。しかし1880(明治13)年の神田の大火によって被災後、後継者問題などもあって次第に経営難となり、経営再建のために新たな経営者を探すことになった。そこで松屋から依頼を受けた取引業者は、横浜で成長著しい鶴屋呉服店に白羽の矢を立てたのである。

打診を受けた古屋徳兵衛氏は当初、創業から20年での東京進出は時期尚早とも考えたが、1万3500円という破格の買収額で東京進出できるまたとない機会という周囲の勧めもあり買収を決断。1889(明治22)年12月、屋号と従業員をそのまま引き継ぐかたちで今川橋松屋呉服店(藤井善兵衛経営)を買収し登記を完了。同番地所在家屋の買収も進めた。

ちなみに総理大臣の月収が1889(明治22)年は800円(9600円/年)、2015(平成27)年が205万円(2460万円/年)であることを基準とすると、1万3500円は現在のおよそ3460万円に該当することになる。

その後、徳兵衛氏は松屋の経営再建に成功、今日の松屋へと続く礎を築くことなるわけだが、松屋の歴史に入り込み過ぎると戻れなくなりそうなので、このへんで再び横浜に視点を戻すことに。