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南区中村橋交差点に英字の標識があるのはなぜ?

南区中村橋交差点に英字の標識があるのはなぜ?

ココがキニナル!

国道16号南区中村橋交差点の上り車線信号機に「RIGHT.ONLY」と英語で書かれた標識があります。どういう経緯で英語の標識が設置されたの? そもそも英語の標識は法律上有効なの?(横濱マリーさん)

はまれぽ調査結果!

「根岸住宅地区」と在日米軍横須賀基地を結ぶ道路上の「右折専用」信号の標識。戦後占領軍が設置したものと思われる

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ライター:小方 サダオ

市史資料室の担当者が語る英字標識設置の経緯とは
 


横浜市の歴史に詳しい、横浜市市史資料室の羽田さんに、投稿の英字標識について伺うと「占領下は日本の警察の許可などは必要ありませんから、米軍が設置したものだと思われます」。
 
「しかし日米安全保障条約(1951<昭和26>年に、占領軍撤退後の日本の安全を保障するために日米間で結ばれた条約)後は、英字標識をどうするかなどの相談は警察としたかもしれません。もとは米軍が設置したものですので、米軍施設がなくなるまでつけたままではないでしょうか?」とのこと。
 
投稿の標識は、日本側が米軍側の便宜を図ってつけたものではなく、米軍側自らが設置したもので、それが今に残っているのかもしれない。
 


野毛伊勢山に占領軍側が設置した看板

 
ところで前出の「米軍関係者の事故」について「MPが対処し日本の警察は確認に来ていただけ」という話がキニナッた。そこでさらに周囲で似たようなことなかったかを調べてみることにした。
 
 
 

不動坂の周辺の住人に「米軍関係車両の事故」について伺う


 
次に米軍住宅の南の玄関口といえる不動坂に向かった。
 


米軍住宅(青枠)と不動坂付近(緑枠)

 
地元のお店の店主に伺うと「昭和20年代後半ごろ、進駐軍の軍用トラックがカーブを曲がりきれず、当店に突っ込んで来た事故がありました。基地からMPが通訳とともにやって来て、私たちと話し合いをしました。日本の警察も現場には来ましたが、現場を見守っているだけでした」
 
「その後私たちで防衛庁の施設課と交渉しました。ほぼ"やられ損"という感じで、米軍側は気持ち程度の補償しかしてくれませんでした」という。
 


坂の上から降りてきた軍用トラックがお店に突っ込んだ
 

米軍施設のMPが中心となって交渉したという

 
次に不動坂近くに住み地元の事情に詳しい男性に伺うと「昭和30年代の後半ですが、自宅の壁に2度ジープがぶつかってきたことがあります。MPと通訳が対処して、日本の警察も来ましたが、英語が分からないこともあり、いる意味がなかったです」
 
「1度は米軍施設内の大佐クラスの将校がやって来て、弁償としてダンプカーで大木を運んできて置いて行きました。『これで勘弁してくれ』という意味だったようですが、結局建築資材ではなかったので使えなかったのです」と話してくれた。
 


米軍は大きな木材を事故の補償代わりに置いて行ったという

 
 
 

接収地が広がっていた本牧での事情を探る


 


米軍住宅(青枠)と本牧(緑枠)

 
中区本牧では、1945(昭和20)年9月に接収が通告され1982(昭和57)年の3月の本牧米軍接収地返還式に至るまで、36年間にわたって接収された。82.2ヘクタール(82万ヘクタール、横浜スタジアム約31個分)が兵員の住宅地区などになっていたという。
 


広い範囲が接収地になっていた本牧

 
本牧は比較的道路が直線的な所が多いが、本牧原のあたりで急カーブになっていて、運転が難しい場所といえるだろう。
 
ここで古くから飲食店を営む店の男性店員に伺うと「このあたりの米軍ハウスの米軍関係者は所帯持ちなど、まじめで日本での生活習慣になじんでいる人が多かったため、節度のある人たちが多かったです。問題なのは横須賀で空母を下りたばかりのような軍人で、車で乱暴な運転をしていたのもそのような人たちです」
 


本牧PX(軍専用の物品販売所)があったあたり

 
「終戦直後は米兵が三溪園内の山をジープで駆け上がる、『ヒル・クライム』という遊びをしていたようです」
 
「また今から約40年ほど前には、『ムスタング』というスポーツカータイプの自動車に乗った横須賀からの米兵が、当店に突っ込んで来たことがありました。店内の柱が一本折れ、鉄の柱に取り換えることになったのです。MPがやって来て事故の処理をしたようですが、補償などに手間取ったようです。面倒なことになるので、米軍関係者の事故に巻き込まれるのは災難のようなものでした」とのこと。
 


横須賀からの米兵が事故を起こしたあたり

 
続いて以前「矢沢永吉さんの記事」でお世話になった、本牧で長年お店を構える「ゴールデン・カップ」の上西四郎(うえにし・しろう)さんに話を伺った。
 
「当店では米軍関係者が多く来店していました。1950年ごろの朝鮮戦争のころは店内で米兵がらみの喧嘩などのトラブルがあれば、店内にSP(海軍のMP)が直接入って来て対処していました。今は山手警察を仲介して出ないと店内に入れなくなっています」という。
 


1964(昭和39)年にオープンした「ゴールデン・カップ」
 

バンド準備中の店内(アルタミラピクチャーズ)