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横浜有数の歴史ある南区真金町の遊郭街のありし日の姿とは?

横浜有数の歴史ある南区真金町の遊郭街のありし日の姿とは?

ココがキニナル!

横浜橋商店街の裏、真金町は昔遊郭だったと聞いています。遊廓を隔てる壁があったとか/遊郭の名残なのか?中央分離帯のある道がある。立派なお屋敷があるが遊郭とは関係ない?(みうけんさん/どみままさん)

はまれぽ調査結果!

真金町遊郭は、1888(明治21)年から営業を開始。中央分離帯は金刀比羅大鷲神社の参道で一流の店が多く並び、遊郭は壁で囲まれていた。戦前まであった遊郭の建物は残されていない

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ライター:小方 サダオ

住民が語る遊郭の街の過去とは


 
次に近隣住民に話を伺うことにした。

まずは植木に水をやっていた初老の女性に伺う。
初老の女性は、「戦後、私がこの家に嫁いできたときに、当家のおじいさんやおばあさんが女郎小屋をやっていました。パンパン(街の娼婦)に四畳半ほどの部屋で売春をやらせていたのです。女郎小屋は、売春防止法の影響で1958(昭和33)年に廃止になりました」と話してくれた。
 


女郎小屋があった場所

 
街を歩くと、この辺りにある店は、理容店やスナックが目立つ。お店の人は、遊郭について知っているのだろうか。
 


周辺にはスナックも多い

 
お話を聞いていると、街の事情に詳しいという、ある理容店の女性、Aさんに遊郭について伺うことができた。
Aさんは「私は真金町の道路を挟んだ中村町に住んでいましたが、この街にはよく来ました。遊郭の一流の店は芸を中心とした芸者もいて、それとは別に体を売る女郎もいました。女郎でも芸を身につけると格が上がるので、日本舞踊を教えている場所はその名残といえます」と、遊郭には芸を学ぶ場所があったと教えてくれた。
 


町内には日本舞踊の教室もある

 
さらに「神社に続く参道は遊郭の一等地になり、その通り沿いには一流の店が並んでいました。そのほかの場所には小さな店構えの格下の店があり、格下の店が並ぶ場所には国で売春行為が認められた『赤線地帯』と非合法の『青線』がありました」と、一流や格下などお店がすみ分けられていたことを説明してくれた。

遊郭には、買春だけではなく舞踊を楽しむ粋な遊び方をする人など、さまざまな目的で立ち寄る人が多く、遊郭内では場所によってお店の種類も違っていたようだ。

続けて、Aさんは「当店の隣りでスナックを営業している知り合いのBさんは、14人兄弟の中から小学生の時に京都から奉公に出されたそうです。女郎小屋があるこの街に働きに来させられたので苦労しているはずです。小学生なので、最初は女郎の仕事はしないで雑用の女中の仕事でもしていたのではないでしょうか。Bさんは青線の店で働いていました」と教えてくれた。つらい身の上を持つBさんは、どんな理由で非合法の店を始めたのだろうか。

また、女郎小屋には男性も働いていたという。女性たちが買い物などで外出した際逃亡する「足抜け」をさせないように、男性がついて見張っていたというのだ。自由もなく、常に見張られる生活。ここで働く女性たちの苦労がしのばれる話だ。
 


周辺には古風な建物もある。撮影許可は得られなかったが、中は飲み屋の作りだった
 

うろこ壁風に塗られた外壁の建物もあった

 
「女たちが女郎に取られる時は、店に買われる形なので、不幸な身の上といえますが、売春防止法の施行で彼女たちは自由の身になりました」

しかし、学がない者も多くほかに仕事がない女性たちに行く場はなかった。そのため、結局、非合法の「立ちんぼ(街角に立って客引きをする娼婦)」にならざるを得なかったという。

では、売春防止法施行後は、遊郭だった場所はどうなったのだろうか。そう尋ねるとAさんは「廃業した遊郭はラブホテルのようなつれこみ宿に変わりました。今では携帯電話で待ち合わせる立ちんぼがホテルの周辺にいますね」と教えてくれた。

故郷から売られてきた女性たちは、売春防止法で自由になったと同時に職も失うことになった。結局、非合法の売春婦が増える形になったとは、なんとも言えない皮肉な話だ。
 


永楽町にはラブホテルがある

 
続いて、理容店の女性が話していた、知り合いのBさんに話を伺うことになった。

現在はスナックの店主であるBさんは「この街に来て、遊郭での仕事を経た後は、この場所でスナックの店主として、女の子を雇っていました。その頃は、遊郭のようにお店にある部屋ではなく、店の女の子はお酒を飲みながら客と話し合ったあとに近くのホテルなどで売春行為を行っていました」と、言葉少なに話してくれた。数々の辛い経験をしながらも、今は店主としてこの街で生きるBさんの姿に、当時の女性のたくましさを感じる。
 


Bさんのスナック
 

お祭りの日に撮影したもの

 
 
 

この街に詳しい住人が語る「遊郭街」の姿とは


 
続いて地元に住み、真金町の遊郭について調査をしたというCさんに話を伺うことができた。
Cさんの家は、600平米の敷地内で女郎小屋を経営していた歴史を持つ。格の高い花魁(おいらん)のような女郎には自分だけの個室も用意されていたという。

真金町の遊郭のあったエリアは人身売買で買われた女郎たちが逃げないように、街の外周が塀で囲まれていた。引手茶屋(ひきてぢゃや:客を遊女小屋に案内する場所)という紹介所もあった。ほかには、県立の真金町病院が町内にあり、この病院では、定期的な性病検査が行われていたとのこと。

女性を買いに来る男性と、買われる女性だけのためにある、独特な街だったといえる。
 


神奈川県立真金町病院があった場所
 

遊郭の所在地などが載っている戦前の電話帳
 

戦前の電話帳の情報を元にCさんが再現した地図

 
戦後の様子について、Dさんというある女性も語っていた。
遊郭の近くに米兵のカマボコ兵舎が作られ、「この街は米兵たちが強姦などの問題を起こさないように慰安婦を常駐させ、風紀を維持する場所としての役割もありました」と戦後の混乱の様子を話していた。

Dさんの女性の友達にはパンパンと呼ばれる売春婦をやっている人がいた。その友達は、仕事が少なかった当時でも儲かっていて、兄弟たちを食べさせていたという。Dさん自身は当時ボロの服を着ていたものの、友達はいつも身ぎれいにしていて憧れるほどだったそうだ。
 


永楽町の向こう側の富士見町に米軍の兵舎があった
 

米軍の兵舎があったあたり(緑枠)(© OpenStreetMap contributors

 
戦後は、「オンリー」と呼ばれる、本国に妻を持つ米兵の“内縁の妻”のような女郎がいて、女郎たちの中では理想的な存在だったそうだ。
一人の将校が相手だと収入も良く、不特定多数の男性を相手にしなくてよかったからだという。将校を相手にした女郎は、女郎の中でも格上といえ、一緒にアメリカに渡った人もいたようだ。この付近には当時、米兵とオンリーの間にできた白人や黒人のハーフの子が少なからずいて「あいの子」と呼ばれていた。

「オンリー」になれた人は、相手は一人だしお金も持っていたので幸せだったといえ、売春街は一般的に言われる人身売買のような暗い面ばかりあるわけではないと話してくれた。

時代によって遊郭の役割も変化していたようだ。平和な時代とは違って戦後の混乱期は、米兵を顧客にするなど稼げる仕事として、一般職よりも遊郭で働く者のほうが、豊かに生活していたといえよう。
 


窓枠(青矢)が特徴的な建物。遊郭のころの名残だという