石川県にあった總持寺が鶴見に移転した理由を教えて!
ココがキニナル!
鶴見の総持寺は、明治時代に石川県から今の場所に移転したそうですが、あの場所は移転以前は元々何があったのでしょうか?どうして鶴見に移転してきたのか、理由が気になります。(NAKAKITAさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
能登にあった總持寺の大火災を機に、総本山を交通の便が良い場所へ移したいという声があったため、同じ曹洞宗の成願寺敷地が移転先に選ばれた
ライター:河野 哲弥
總持寺のことなら、この人に聞け!
鶴見区鶴見にある總持寺(そうじじ)は、全国に約1万5000寺の関連寺院を持つ、曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山である。しかし、現在の地に移転してきたのは、1911(明治44)年のこと。それまでは、石川県の能登地方にあった。
さて、移転の経緯について同寺へ取材を申し込んだところ、宗門代表の管長は一定の期間で交代するため、当時の様子を直接知っているわけではないという。「鶴見区文化協会に詳しい方がいるので、そちらに聞いてみては」とのこと。
ということで、同協会の齋藤美枝(さいとうみえ)さんと總持寺で待ち合わせ
この齋藤さん。受付に挨拶すると、まるで我が家のように總持寺について詳しく説明してくれた。
それもそのはず。齋藤さんは、移転100年を記念して出版した『鶴見 總持寺物語』の著者であり、總持寺研究の第一人者といっても過言ではない方なのだ。普段は、同寺のボランティアガイドなども務めているという。
頂いた著書や資料など
齋藤さんは、今までの研究を振り返って、「ここは修行の場なので、誰も總持寺が鶴見に移転してきた経緯などについては詳しくないようです。だから、全国の関係寺院に直接伺ったり、資料を細かく付き合わせたりしながら、長い時間をかけて一つ一つ明らかにしていきました」と話す。
顔パスなのもうなずける。もう、齋藤さんに全てお任せしちゃうことにしよう。まずは、非公開部も含めて、總持寺とはどんなお寺なのかを、説明していただくことになった。
「単位」の語源ともいわれる、僧侶の修行の場
そもそも曹洞宗とは、1226(嘉禄2)年に帰国した道元(どうげん)禅師の「教え」を後に体系化したもので、いつごろ始まったものなのかは定かではない。ただし道元は1244(寛元2)年、現在の福井県吉田郡に、修行道場ともいえる永平寺を建てたと伝えられている。
一方、道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山(けいざん)禅師は1321(元亨元)年、石川県にあった諸嶽寺(しょがくじ)を諸嶽山總持寺と改め、曹洞宗の礎を築いた。そのため、この二寺がともに、曹洞宗の大本山となっているようだ。
曹洞宗では、この二者を「両祖」としている(總持寺のサイトより)
時は下って、1898(明治31)年。後者の總持寺は大火災に遭い、投稿にあったように、鶴見へ移転することになった。その理由と移転前の様子が今回の主眼なのだが、今は、ずんずん進んでいく齋藤さんの後を追うことにしよう。
まずは「大僧堂」へ
さて、禅宗の特徴は、「坐禅」に代表されるような僧の厳しい修行にある。ここ「大僧堂」は、まさにその道場となっている。隣接する衆寮(しゅりょう)では坐禅体験も行えるそうである。
畳約一畳のスペースが各僧に与えられる
寝起きや食事もここで行う
齋藤さんによれば、このスペースは「単(たん)」と呼ばれ、学校などで用いられる「単位」の語源となっているとの説も。この木の部分は、各僧が食器や枕などを置く神聖な場所であり、絶対に触ってはいけないとのこと。ちなみに、各僧が「単」に上がるときは、ここを飛び越えるそうだ。