小机城の「伝えの城」だった都筑区の佐江戸城跡に迫る!
ココがキニナル!
佐江戸城跡を取材してください。(jckさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
佐江戸城は、大永年間(1521~1527)のころに、猿渡内匠助によって築かれた山城で、現在、跡地に遺構は無いが道祖神が祀られている。
ライター:橘 アリー
伝えの城だった!
今回の調査は、現在の都筑区佐江戸町にあったという、佐江戸城跡について。
筆者は以前に、「横浜市内にお城はあるの?」という投稿について調査している。
その時の調査では、横浜市内に現在お城は無く、かつて戦国時代に「山城」と呼ばれる城が44城あり、その中で遺構が確認されているのが寺尾城・茅ヶ崎城・小机城・篠原城の4城のみという調査結果だった。
小机城の碑
はたして、その4城以外にも遺構は残っているのか。改めて調べてみることに。
まず最初に、キニナル投稿にある「佐江戸城跡」について「日本城郭体系」「新編武蔵風土記」、都筑区の郷土資料などで調べてみた。
まず、佐江戸城は、大永年間(1521年~1527年)のころに、鎌倉幕府に仕えていた猿渡佐渡守(さるわたりさどのかみ)の一族の猿渡内匠助(さるわたりたくみのすけ)が築いた城である。
そして、遺構が確認されている小机城の「伝えの城」であったようだ。
「伝えの城」とは、本城(この場合は小机城)を支える支城の一つで、煙火を上げたり伝令を走らせたりして、本城からの連絡をほかの支城などに伝える役目の城のこと。
地理的に、佐江戸の地は高台で眺望が良く、鶴見川が臨め、東海道が作られる以前の重要な街道であった中原街道と、南多摩から神奈川に達する古道が交差する地点にあったことにより、「伝えの城」としての役目を担っていたようだ。
佐江戸城と同じような、山城があった場所の様子(横須賀の衣笠城跡)
なお、佐江戸城は山を利用して作られた山城で、北西の山上に城の中心部である「本丸」と呼ばれた曲輪(くるわ:城の中の区切られた縄張りのこと)と、その後方に前城主の隠居所として使われることが多かった「西の丸」と呼ばれた曲輪があったそうだ。資料には現在は畑になっていると記されていた。
次に、資料にある内容をもとに、現地へ行ってみることに。
「本丸」や「西の丸」があった場所は、現在はどのようになっていて、遺構のようなものはあるのだろうか?
杉山神社の近くで聞き込み調査
佐江戸城跡は、都筑区佐江戸町2020番地の杉山神社の近くにある
杉山神社の境内の様子
まずはご近所で、佐江戸城があった場所について聞いてみた。
お話を聞かせてくださった、根岸サクさん(左)と萬紀(まき)さん
根岸さんは、先祖代々この地で暮らしておられるそうで、この近辺の畑も所有されておられるそうだ。
資料には、「西の丸」があった場所が現在は畑になっているとある。
どうやら、根岸さんの畑のある場所が、佐江戸城の「西の丸」あった場所のようだ。
なお、佐江戸城についてはご存じでは無かったが、ご親切にも、ご自宅にあった「緑区史」で調べてくださった。
すると、すぐ近くにある無量寺(むりょうじ)に、佐江戸城を築いた猿渡内匠助が祀られていると分かった。
そこで、「西の丸」があった場所を確認した後で、無量寺を訪ねてみることに。
「本丸」があった場所についてはまだ分からないが、無量寺で何か教えてもらえるかも知れない。
「西の丸」の様子は?
杉山神社の横の坂道を登って行くと
神社の後方に畑がある
緩やかな坂道に沿って畑は辺り一面に広がっている
この辺りは高台で、周囲に高い建物もなく、とても見晴らしいが良い。
「西の丸」からの眺めも、きっと、とても良かったのではないだろか。
続いて、無量寺へ行くことに。
無量寺は、杉山神社の横(畑とは反対側)にあるので、上ってきた坂道を下っていくと
杉山神社の裏側に見晴らしの良さそうな小高い場所があった
行ってみると、そこは「空掘」があったような様子になっている
「空掘」とは、「本丸」や「西の丸」などを囲む、水のない掘りのこと。
先に進んで行くと、斜面が急になっていて
斜面からの見晴らしがとても良い。左下の建物が無量寺の本堂
斜面から道へ戻って無量寺へ。