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山下公園で強烈な異彩を放つ大道芸人、謎の技を披露する「ハンガーマン」って一体何者?

ココがキニナル!

グランモール公園や山下公園では大道芸人が楽しい大道芸を披露してくれます。その中でも異彩を放つハンガーマン!キャラの強烈さに観客は一瞬にして虜に。是非この方を取材してください。(Tokuさん)

はまれぽ調査結果!

見事なパフォーマンスで海外遠征も実施する大道芸人のハンガーマン。素顔は紳士的でシャイな男性だ。実は元サラリーマンで、劇団員だった過去も。

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ライター:三輪 大輔

9月某日。空は晴れ渡り、最高気温が26℃まで上がって夏日となった。風速は4メートル。頬を撫でる風が心地よい。ただ前日までの予報では雨だった。

「雨だったらやらないよ」
ハンガーマンはそう言っていた。天気予報を確認して不安ではあったが、実際は見事な快晴となり安心した。
 


雨の予報を覆し晴れ渡る山下公園
 

大道芸の日程が貼り出されている公園の掲示板


午前中の山下公園は家族連れやカップルでにぎわっていた。海は凪いでおり、海上には氷川丸が停留している。穏やかな時間が過ぎていき午前11時前になって、その人は現れた。紳士的でシャイな感じ。それが彼の第一印象であった。
 


帽子を目深に被り、シャイな様子を見せるハンガーマン
 

パフォーマンスの道具が入った荷物は総重量40kg
 

この日、一緒にパフォーマンスを行うMU-RA(ムーラ)さん


大道芸人のハンガーマン。25年ほど前から代名詞のハンガーを顔にかけ、ローラーバランス(筒の上に乗ってバランスを取るジャグリングの技)を行ったり、頭にハンガーを載せて台座の高い一輪車にまたがったりしてパフォーマンスを行っている。

フランスのアビニョンや、スコットランドのエディンバラなど海外でも大道芸を行い、活躍の舞台を世界に広げている。まさに大道芸の世界の第一人者らしい経歴だ。しかし取材冒頭、彼の口から飛び出したのは意外な言葉だった。
「僕、人見知りなんですよ」



ハンガーマン誕生前夜

午前11時過ぎ、この日パフォーマンスを行う3人がそろった。各々、近況の報告や最近の現場の話に花が咲く。そして、みんなで談笑しながらブルーシートを広げると、車座になった。どこからか「100円持ってない?」という声が上がると、100円玉が次々と取り出される。5枚集まったところでブルーシートの上でサイコロのようにコインが放り投げられ、一投ごとに歓声があがった。コインの表の数の多さで、この日パフォーマンスを行う順番を決めているのだ。
 


ブルーのシートの上で熱戦が繰り広げられる


大道芸は外で行う場合、天気や風向きによってパフォーマンスの質が変化し、時間帯によって客層や足をとめる人数が変わってくる。一日最低2回はパフォーマンスを行うが、順番によっては3回目を行うことも可能なため、その日自分が何番目になるかは非常に重要だ。

各々がベストなパフォーマンスを行え、なおかつ一番実入りがある時間帯を狙っている。場に笑いがありながらも、みんな真剣な表情だ。儀式のようにコインの投擲(とうてき)が行われ、順番が決まった。ハンガーマンは、この日3人中2番目の順番となった。

それが終わると、次は会場の設営だ。山下公園は、大道芸人を管轄しているヨコハマ大道芸実行委員会が、区から許可を得て場所を借りているが、会場の設営などは自分たちで行う必要がある。
 


ハンガーマンが携帯している演技許可証


この日も、みんなで手分けしてスピーカーなどの設置を行い、会場が準備されていく。そして全ての設営が終わったところで、インタビューを行うことができた。彼の話は、自身の意外な経歴の暴露から始まった。
 


ステージで使用するスピーカーなどの音響機器
 

ステージの設営は完成しだが人通りはまだ疎(まば)ら
 

最初の演技を前に話し込むハンガーマンとMU-RAさん


「サラリーマンをやっていました」

ハンガーマンは学校を卒業した後、実は3年間プログラマーとして働いていた。そこは最先端のロケットを扱う職場だった。ドックイヤーと形容される目まぐるしい技術革新。当時の日本産業の勢いや、プログラミングの世界の飛躍的な拡大と相まって、職場には常に新しい刺激が飛び交っていた。しかし技術者としてのキャリアを積み、これからという時に彼は仕事を辞めた。飽き性という性分が影響したとのことだ。
 


ハンガーマンはサラリーマンを3年で辞める


そして次に選んだ仕事は劇団員だった。技術者という自身の経験の延長線上にはない選択肢。しかし「人見知りだけど、人の前に出ることがしたかった」という理由で、今まで経験があった訳ではないが、彼は演劇の世界に飛び込んだ。最終的に4年間、劇団員として過ごした。とても楽しくて有意義な時期が過ぎていく。しかし問題があった。劇団の仕事では食べていけないのだ。

そんな時、ある広告に目が留まる。それはクラウンカレッジジャパンの生徒募集の広告であった。そして1989(平成元)年の9月。彼は同校に通うことになった。
 


サラリーマンの後、劇団員に転向


クラウンカレッジジャパンを主催していたリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスはアメリカで非常に有名なサーカス団で、本土でもクラウン(道化師)養成の学校を運営。同校は日本における分校のような位置づけで、1990(平成2)年に大阪で行われる国際花と緑の博覧会に出演することを主目的として開校した。しかし、この選択が彼の人生を決定的に方向付けることになる。
 


1989(平成元)年、花博のため大阪に飛んだ


学校ではジャグリング、クラウニング、そしてメイクなどの大道芸をする上で基本となる技術を学んだ。そして学校を卒業すると、国際花と緑の博覧会に出演するために大阪に赴(おもむ)く。しかし、博覧会が終わると仕事は全くなかった。それに、わずか4ヶ月の授業だ。大道芸人として生活していくのに、十分なスキルを身につけることができた訳ではない。

今から24年前、彼は東京に戻ってきた。街で大道芸のパフォーマンスを行うのが、まだ珍しかった時代。見本になるような人もいない中で、銀座や上野公園で繰り返しパフォーマンスを行う。その合間に、まさに血の滲むような練習を重ね、パフォーマンスの質を向上させていった。そして次第に活躍の舞台が増えていくにつれ、いつしか彼はハンガーマンとなっていた。

どんな取材でも「ハンガーマン」と名乗り、本名を明かすことはない。舞台の上での「パフォーマー」としてありつづけようという姿勢を貫いているのだ。